「1938年7月6日、フランスの保養地エビアンで10日間にわたる国際難民会議が開催された。
 この会議では、わずかの例外を除いて、いかなる国もユダヤ人難民を引き受けようとはしなかった。
 そればかりか、その時点まで法律上受け入れの可能性のあった国々は、移民法を改正し、
 締め出しを図ったり、あるいは少しではあるが開いていた国境を閉じた。」
「1930年代のアメリカでは、ユダヤ人が政府の職に多く就きすぎていると考える者が24%、
 ヨーロッパでユダヤ人が迫害を受けているのは彼ら自身の責任であると思う者が35%で、
 ドイツから多数のユダヤ人がアメリカに亡命してきたら受け入れるべきかという問いに対しては、回答者の77%が否定的だった。」
「ユダヤ難民936名を乗せた「セント・ルイス号」は1939年5月、ハンブルクを出航したが、
 当初の目的地キューバで上陸できず、アメリカからも入国を拒否されて空しくヨーロッパへ戻った。
 幸いにも、イギリス、フランス、ベルギー、オランダが難民を行け入れたが
 イギリス以外はドイツに占領され、大半は後に殺された。」
「ナチスに追われたユダヤ人の波が押し寄せ始めた時、アメリカは1939年6月の「スミス法」で
 外国人受け入れ取締りを強化し、続いて1941年の11月には「ラッセル法」を制定してビザ発行を制限した。」

樋口季一郎と東條英機が満州でユダヤ難民を保護したのが1938年
杉原千畝がリトアニアでユダヤ難民にビザを発行したのが1940年