セリーナ騒動の報道にみる米国文化

 米国メディアの多くは当初、セリーナ敗北の一因をつくった審判のカルロス・ラモス氏の判断を批判し、セリーナの肩を持った。
 米紙ワシントン・ポストのスポーツコラムニストは8日、審判を「女性に厳しく抗議されることを受け入れられず、大坂とセリーナの晴れ舞台を台無しにした」と批判した。
 数日たって米国の風向きも変わってきた。セリーナ擁護派と批判派の両方のコメントを紹介するメディアが増えた。
 ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)は10日、元スター選手でレズビアンのマルチナ・ナブラチロワさんの寄稿「セリーナが間違ったこと」を掲載。
ナブラチロワさんは「男性選手が反則行為をして許されたから、女性も許されるべきだ」と考えるのではなく、「スポーツと相手選手を尊重する行動とは何か」を自問すべきだと訴えた。
 さらに同紙は11日付運動面で、20年間セリーナの試合を見てきたという黒人の男性記者が「我々はセリーナの行動を批判するときに、人種差別や性差別と受け取られないかと心配してしまう」と告白した。
 このあたりが多くの米国人の本音だと思う。セリーナが審判に感情を爆発させるのを過去にも見てきた者たちは「またか」と思った。
しかし、米国では、テニス界の性差別や人種差別に対して声をあげてきたセリーナを批判することは、「PC(ポリティカルコレクトネス)」に反するのだ。PCとは差別主義者と思われないための政治的に適切な言動だ。
他国は米国のPCコードを共有しないので、セリーナを批判しやすかったのだろう。
 スポーツだけでなく、社会でも規則は強い者が作り、適用する。マイノリティーが不当だとして抗議すべき時もある。でも今回は私もセリーナにがっかりした。特に、彼女が審判に「私はずるはしない。
娘がいるから間違ったことはしない」という内容の発言をした時だ。ママであることは証明書でもないし、免罪符でもない。

https://mainichi.jp/articles/20180914/mog/00m/050/004000c

アメリカのポリコレコードって他国と比較して異質だなぁって毎日が批判的論説掲載中