>そもそも漢語以外を真理を語り得る言語として否定する儒教。特に禅宗から出発しながら
 「人は観想を通じても真理に到達可能である」なる観点を放棄し「読書と静坐の積み重ねに
 よる漸修」のみを認める朱子の「四書(論語、孟子、大学、中庸)」注釈が科挙科目に採用さ
 れて絶対権威化されて以降、教学研究が完全停滞状態に陥ってしまう。
>*清代に入ると明朝滅亡と異民族王朝復活のショックから儒教の原点を経書・史書に求
 め、史料批判技法の研鑽を通じて六経への回帰を目指した考証学(実証主義的古典学)や
 習行(繰り返しの実践)を重視する行動主義的哲学に到達した顔李学派も登場したが、
 いかんせん「科挙合格者(朱子学の盲目的受容者)のみが国政に参加可能」とした(外国人
 皇統にとっても都合の良い)中華王朝運営理念の壁までは破れなかったのである。
ttp://ochimusha01.hatenablog.com/entry/2018/04/30/061550

はえー。