で、ここからが妄想になるけれど、本邦の武家政権の完成形たる江戸幕府が比較的よい統治を行い産業革命直前までいけたのはこの武士と士大夫を強引に一緒に考えたことが理由かもしれない
中華王朝における士大夫は、儒教のアップデートパッチである朱子学に基づいてただ形式を守ればそれで自然と偉く徳があり続けることができた
易姓革命が起きない限りね
ところが本邦では、武士という儒教的徳とは正反対の存在であり続けることと、同時に東洋的儒教的な素養を同時に修めることを要求される
ぶっちゃけ自己定義が矛盾しているからには、中華諸王朝の士大夫や外戚なんかみたいに腐敗なんてしたらたちまち自家中毒に陥ってしまう
ならばということで、すでに完成された論理体系である朱子学にパッチをあててしまわざるを得ない

とここまで考えた
要するに憲法9条の解釈と同じようなこと昔からやっていたからなんとかなったんじゃね?という