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パリ条約 (1947年) - Wikipedia.htmlより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84_(1947%E5%B9%B4)

イタリア平和条約
詳細は「イタリア平和条約 (1947年)(英語版)」を参照
条約の前文ではイタリア王国軍とレジスタンスが共同参戦国として対ドイツ戦に有力な働きをしたと言及されているが、イタリアの扱いはあくまで「旧敵国」であった[11]。

イタリアの領土の内、ブリガ(英語版)とテンダ(フランス名・タンド)といったアルプスの国境地域の一部がフランス領となった[11]。また、戦前に獲得していたヴェネツィア・ジュリアの大部分、
ダルマチア地方のプーラとゾラ、フィウーメ(現リエカ)、アドリア海の島嶼はユーゴスラビアへ割譲された。またトリエステはトリエステ自由地域となった。ロドス島をはじめとするドデカネス諸島(イタリア領エーゲ海諸島)はギリシャ領となった[12]。
さらに、サセーノ島(英語版)に関する請求権を放棄し、アルバニア領と認めた。

また海外植民地および中国における租界の権利をすべて失うこととされた[12]。ただし、最終的な帰属画定は行われず、中でもイタリア領ソマリランドはイギリスの占領下に置かれたものの1950年12月にイタリアの信託統治地域となり[13]、
1960年のソマリア独立まで続いた。

またソビエト連邦に1億ドル、ユーゴスラビアに1億2500万ドル、ギリシャに1億500万ドル、エチオピアに2500万ドル、アルバニアへ500万ドルの賠償を行うこととなった。
西側連合国は賠償請求を行わなかったものの、被害を受けた連合国国民の資産に対してはリラ建てで弁償することが定められた[11]。しかし連合国経済復興機関や民間援助により、賠償支払いの負担は大きく緩和された[11]。

条約締結の翌日、イタリアのアルチーデ・デ・ガスペリ首相は、「国土にひしめく4500万人の国民を養うことができない国家の生命」に毒を盛った、これはムッソリーニと同じ動機であるとして条約を激しく非難している[14]。

連合側に寝返ったのは事実だが、むしろ領土領土を増やしてるどころか減らされているしソビエト連邦に1億ドル、ユーゴスラビアに1億2500万ドル、ギリシャに1億500万ドル、
エチオピアに2500万ドル、ルバニアへ500万ドルの賠償を行うこととなったのだがね。