前スレ
http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/army/1552270943/959
 >譬え話は常に迂遠だ。しかし譬え話であればこそ、目にすることや耳にする話の構造を、的確に把握できる場合がある。

 >時折、誘拐犯が何年もの長きにわたって誘拐した子供を監禁していたという事件が明るみに出る。
>長きにわたって手元に置いたのだから、誘拐犯は衣食住すべてにカネや労力を使ったのだろう。
>監禁された人は監禁される前より豊かな生活を送っていた可能性さえある。
>だが結局、犯人は逮捕され裁判が始まる。そこで例えば犯人が「誰のおかげで、飯を食えていたと思うのだ!」と主張したとしよう。

>この主張を「そうだよなぁ。頑張って育てたんだよなぁ。感謝されてもいいぐらいだ」と受け止める人がいるであろうか?

>日本による朝鮮半島の植民地支配を正当化あるいは美化する人たちの主張を目にするたび、監禁時のコストや労苦を自慢し恩に着せる誘拐犯を見る思いがする。

食えなくて死にそうな孤児を世界をいう役所のお墨付きで養子にして実の子として扱ってきたのに
家産が傾いたら家族を捨て家を飛び出て「俺は誘拐されていたんだ!」と声高に叫ぶ

例えるならこうでは?