>>852
見せ方の違いというか、骨格の違いというべきでしょうな

「2001年」は「未来を描く」ことが目的だった
小物、美術、テクノロジーはすべて「未来」たる必要があったし、
そして人の身の回りのオブジェクトが「未来」なのであれば、人の生活様式もまた「未来」たる必要があった
ロベピエのおっちゃんが言う通り、作中でクルーがタブレットで動画を観ながら飯を食う光景とか、AIとチェスをして時間を潰す光景とか、まさにそんな趣向に基づくものですな

一方、「2010年」は「ストーリーを書く」ことが目的だった
確かに人は遺伝的、生物的に進化したかもしれない、
確かに人は科学技術を発達させ、高度文明を築いたかもしれない、
だが、相変わらず米ソは対立しており、世界は争いに満ちているのはどういうわけだろう?
僕たちはアップルのコンピュータではない、僕たちはホワイトハウスやクレムリンの駒ではない
結局のところ、僕たちは物質的な豊かさを手にしただけに過ぎない
では、物質的な豊かさの「次」とは何なのだろう?
僕たちがもっと高次の豊かさを手に入れるためには、どうしたらいいのだろう?
そんな問いを「ストーリー」という形で提供したのが、「2010年」ですな
最後に木星が恒星化するなんて、物理的にあり得ないようなミラクルを起こしちゃうのも「ストーリー」ならでは