原爆による最大の破壊効果を得るために選ばれたのは東京湾から佐世保までの17か所であったが、
その中でも広島と京都が有力候補に上がっており、「マンハッタン計画」で原爆計画の責任者を努めていた
レスリー・グローブス准将は京都を推した。グローブスは「京都は外せなかった。
最初の原爆は破壊効果が隅々まで行き渡る都市に落としたかった」と述べていた。
しかし、陸軍長官のヘンリー・スティムソンはかつて京都を2度訪問し、原爆を投下すれば、
おびただしい数の市民が犠牲になることを認識していたためこの案を却下した。
一方、グローブスはスティムソンとの面会から1か月後、京都に軍事施設があるという報告書を作成し、
京都駅や絹織物の糸を作る紡績工場を軍事施設として報告していた。
京都への投下は国益を損なうと考えていたスティムソンはグローブスの提案を認めようとはしなかった。

1945年7月16日、ニューメキシコ州で世界初の原爆実験が成功。
一方で、日本はすでに降伏は間近と見られ、グローブスは戦争が終わる前に原爆を使わなければならないと考えた。
原爆実験から5日後、スティムソンに部下から緊急の電報が届き、軍は京都への原爆投下をまだ諦めていなかった。
スティムソンはトルーマンに報告し京都を外すよう求め、トルーマン自身は7月25日の日記に
「この兵器は今から8月10日の間に日本に対して使う予定になっている。
私は陸軍省長官のスティムソン氏に、使用に際しては軍事目標物、兵隊や水兵などを目標とし、
女性や子どもを目標としないようにと言っておいた。いかに日本が野蛮、冷酷、無慈悲かつ狂信的とはいえ、
世界の人々の幸福を推進するリーダーたる我々が、この恐るべき爆弾を日本の古都や新都に対して落とすわけにはいかないのだ。
この点で私とスティムソンは完全に一致している。目標は純粋に軍事物に限られる。」と記していた。
しかし、トルーマンのもとに軍から届いた新たな投下目標を記した報告書の最初にあげられていたのは広島で、
グローブスたちが意図的に騙すために報告書には、「広島は日本有数の港と軍事物資の供給基地など
軍の大規模施設が集まる陸軍都市である」と述べられていた。
トルーマンは広島に原爆を投下しても一般市民の犠牲はほとんどないと思い込んでしまった。