仕様書が確定した、昭和15年年末の時期、
世界の速度記録機、高翼面荷重の機体ばかり、ってのは、
日本航空学会誌を丹念に読むエンジニアだったら、
誰でも気がつく事象である。

雷電は、翼面荷重150程度、という中途半端な設計だったのが、
そもそもの誤りだったのだろう。

着陸速度要求が130km/h以内、に大きく影響されただろう。
とは言え、前縁スラット、親子フラップ、ファウラーフラップなど、
補助揚力装置を用いて、速度比率5まで伸ばす機体のあり方は、
1930年代半ばで、フォッケウルフで実用化されている。

ブラックバーン系の翼型から、LB翼型に、マイナーチェンジに切り替える、
という離れ業は、同じ三菱の海軍機チーム、本庄のところが完遂した。
同じ翼厚でありながら、空気抵抗を大幅に削ったワケで。

堀越曽根のチームの限界が、ハッキリと浮かび上がる。
96艦戦の際は、沈頭鋲というデバイスを積極的に導入できたのに、
昭和15年以降の堀越チームに、そういう進取の精神は窺えない、