1949年11月末、中国・四川省重慶郊外、白子駅飛行場。
中華民国空軍のダグラスC54輸送機、機体番号233と308の2機が、
空軍兵士に守られ、静かに待機していた。

だが、遠くからは砲声が響き、飛行場の外では騒がしく難民が行き交っている。
中華民国首都の重慶も、もはや共産軍の攻撃に陥落しかかっていたのだ。

中華民国教育部次長(日本でいえば文部次官)は、わずかな数の空軍機や民間機を動員し、
政府関係者や学者、学生など、中華民国を支える人材を台湾に脱出させる任務にあたっていたが、
教育部次長は立法委員(日本でいう国会議員)の依頼を受け、悩みつつ国民党総裁・蒋介石に面会を求めたところ、
蒋介石の鶴の一声で輸送機の特別手配が決まり、2機の輸送機はそのために待機していたのだが、

立法委員の依頼とは博物館にあったものを某大学に避難させていた、古代中国殷王朝の発掘品を共産軍の手に落ちる前に運び出してほしいというもので、
某大学での荷造りで大きな木箱69箱になった発掘品は1機の輸送機で運びきれる量ではなく、
それ以前に荷造りや輸送にあたった教育部職員や、動員された重慶大学学生の士気は低かった。

「この期に及んで輸送機や船やトラックがあるなら家族を脱出させたい、自分の財産を守りたい」
「どこのエライさんが欲しがっている骨董品なんだ、そんなもの共産軍に渡してやればいいじゃないか」。

中華文化の発祥を今に伝える文物を後世に伝えるのは中華民族の義務だ、と、
教育部次長の必死の説得に応じ、某大学からの搬出作戦が始まったが、
共産軍の攻撃、難民の波の中、トラック3台で運び出せたのは木箱38箱、
残りを運び出す便を出す時間は残されていなかった。

11月29日午前9時半、木箱38箱を載せた233号機、308号機が白子駅飛行場を離陸、台湾へ。
233号機はその日の夕方には台北飛行場に着陸していたが、
308号機は機体故障で昆明に不時着、故障を修理したがまたも機体故障で海南島の海口に不時着し、
台北飛行場にたどり着いたのは12月1日、

蒋介石ら国民政府の要人が奥地の成都に向けて重慶を脱出したのが11月29日夜半、
11月30日、重慶は共産軍の手に落ちた・・・。