終戦後も格闘技日米決戦やってたんだよね・・・

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太平洋戦争(大東亜戦争)終戦後、GHQから米海兵隊の銃剣術の教官と日本の武道家との試合の
申し出があった。日本武道の誇りと名誉がかかった一戦であり、おいそれと負けるわけにはいかない。
このため対戦する武道家は実戦名人であることが求められた。また、米海兵隊の銃剣術教官は徒手
での格闘術も訓練されているため、剣術のみではなく武器を持たない場合でも強いことが求められた。
この条件に、政治家(国務大臣)であり武道家(弘前藩伝の小野派一刀流剣術・神夢想林崎流居合・
直元流大長刀術の宗家)でもあった笹森順造は、武道家の間では異端とされていた國井善弥に
白羽の矢を立てた。國井は木刀を持って銃剣を持った米海兵隊教官との立会いに臨む。試合が開始
されるやいなや國井は相手の攻撃を見切って木刀で制し身動きの取れない状態へと持ち込む。これは
圧倒的な実力差であり、米海兵隊教官に負けを認めさせるに十分であった。この試合が実施された
当時、GHQは武道が軍国主義の発達に関連したと考え、武道教育禁止の措置を取っていたため、
後年、この試合が武道教育禁止の措置の解除のきっかけとなったという話が広まったが、この試合の
結果と武道教育禁止の措置の解除に関係があるかどうかは定かでない。ただし、日本武道の名誉を
かけた一戦に実戦名人として國井善弥が選ばれたことは特筆すべき点である。