黄河決壊事件

1938年6月のことである。当時、徐州近辺によっていた中国軍は
追撃する日本軍を足止めさせるため黄河の堤防を決壊させた。
その結果、河南省、安徽省、江蘇省にまたがる約54000平方キロメートルが水没、
水死者100万人、被害者600万人が出た他、農作物にも多大な損害が生じたという。

中国軍ははじめ例によってこれを日本軍の仕業として世界に宣伝しようとした。
が、その真偽に疑問を抱いた海外メディアによって事実は逆であったことが明らかにされた。
それは日本軍ではなく中国軍の仕業であったのだ。そのうちのひとつ、スペインのディアリオ・バスコ紙は
「中国軍は黄河の堤防を破壊してノアの大洪水 に勝る大水害を起こそうとしている。
中国の中部地域における70万平方キロメートルの地域が水没の危機に晒され、
7千万の住民が大洪水の犠牲となろうとしている。」と手厳しく中国政府を非難している。

一方で、この事件によって中国国内ではかえって日本軍の株があがることにもなったらしい。
というのも、この黄河氾濫の後遺症によって1942年から43年にかけて河南省で飢饉が発生したのだが、
その際、日本人が多くの軍糧を放出して人々を救出したからだ。
※劉震雲「温故一九四二」 『中国当代作家選集還書 劉震雲』(人民文学出版社、2000年9月)

黄河決壊事件における日本軍の対応
国民党軍は開封陥落直前に約8kmに渡って黄河の堤防破壊を行い、雨期に入る開封一帯を水没させた。
6月9日に続いて6月11日夜にも隴海線中牟の西方20kmの地点で黄河の堤防3ヵ所が破壊され、
2、3日前の雨で増水した水が堰を切って奔流しつつあったため、12日午後5時に日本軍の2部隊が
堤防修理に出動し、開封治安維持会からも50名以上が自発的に応援に出た。
洪水は中牟を中心として幅約20kmにわたり、5m弱の高さを持った中牟城壁は30cm程度を残すだけとなった。
幸い線路が高い所に位置していたため、住民は線路伝いに徒歩で東方に避難した。
日本軍は筏船百数十艘を出して住民とともに救助活動を行い、
同時に氾濫した水を中牟付近から別の地域に誘導するために堤防と河道を築いた。
国民党軍は現場に近づく日本軍に攻撃を加えたほか、日本軍が住民と共同で行っていた
防水作業を妨害した。