1992年、宮澤改造内閣で農林水産政務次官。
1993年の宮沢内閣不信任決議を巡っては、与党の一員でありながら賛成票を投じるが、
離党はせず、直後の第40回衆議院議員総選挙では、無所属で出馬し、再びトップ当選する。

しかし細川連立政権が推進した政治改革関連4法案をめぐり、
野党に転落した自民党の方針に反して賛成し役職停止処分を受けたため自民党を離党。
同じく自民党を離党した西岡武夫らと共に改革の会を結成した。
その後自由改革連合を経て新進党結党に参加。
しかし、1995年に国連中心主義を唱える小沢一郎が新進党党首に選出されると、
安全保障政策に失望し、1996年の第41回衆議院議員総選挙を前に単身、新進党を離党。
総選挙では新設された鳥取1区から無所属で出馬し、過半数に達する得票で圧勝した。
以後7度、鳥取1区では対立候補に1度も比例復活を許さず、当選を続ける。

1997年3月、自由民主党に復党。2

間違いなくクソ