>>265
というかね、”既存のメディアに身銭を支払う俺ら”という枠組みって”知識人気取りの半可通の番付表”に金払ってるだけなのよ。
あの論考の中では「古典的教養の有無」に一言も触れてなかったけど、そこに触れた瞬間に中産A,Bという分類が無意味になるからなのよ。

古典的な意味での教養人、知識人を名乗れない自覚は流石にある、でもインテリ気取りで他人にマウント取れる地位は欲しい、
となれば自分が知ってる狭い知識の枠内で何を持ち出すかなんて知れたもので、でもそれが通用しないことに苛立ってるわけだ。

旧メディアに対する信用の度合いは結果的な現象で、実際にはもう少し深いところで枠組みが分離しはじめてるんじゃないか?と思ったので御座る。