>>61
1962年のキューバ危機の際には、トルコと共にイタリアにもソ連に向けられたジュピター中距離反応弾頭ミサイルが配備されていましたしね。

史実ではトルコのジュピターミサイル撤去の代わりにキューバのミサイルも撤去と言う取引が成立して核のパイ投げ合戦はせずに済みましたが。
しかし☆世界では取引は失敗し、イタリアのジュピターミサイルが配備された基地は、ソ連軍の最優先攻撃目標として反応弾を撃ち込まれ
おそらく蒸発してしまったでしょう。  以下ジュピターミサイルのwikiの項目から引用。

ジュピター (ミサイル)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%94%E3%82%BF%E3%83%BC_(%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%AB)
(前略)
1959年4月、空軍長官は2個ジュピターMRBM中隊をイタリアに配備する実施命令を空軍に出した。
1961年から1963年まで合計30機のミサイルを持つ2個中隊がイタリア国内の10のサイトに配備された。

ミサイルサイトはNATOの戦力としてイタリア空軍の要員によって運用されたが、核弾頭の安全装置の制御はアメリカ空軍の人員によって行われた。
これらのミサイルはイタリア南部のプッリャ州にありワインで知られるジォイア・デル・コッレ (Gioia Del Colle) 空軍基地に配備され、イタリア空軍
第36戦略航空阻止中隊(36o Aerobrigata Interdizione Strategica) によって運用された。
(中略)
ジュピターMRBMが配備されたイタリアの基地において、1961年の10月半ばから1962年8月の間に核出力 1.4 Mt(5.9 PJ)の熱核弾頭を搭載した
(中略)
トルコに配備された時点ですでにジュピターMRBMは時代遅れとなっており、ソ連の攻撃には無防備の状態であった。
ジョン・F・ケネディ大統領は、1961年1月に就任するとすぐに、すべてのジュピターMRBMの退役を命令している。
しかしながら空軍は退役を延期し、1年後に大統領がこれを知り激高したといわれる。

その後のキューバ危機の際、アメリカはトルコ配備のジュピターMRBMを交渉材料に用い、トルコのジュピターMRBMを撤去するのと引き換えに
キューバからR-12(SS-4)を撤去させることに成功する。 すべてのジュピターMRBMは1963年4月までに作戦配備からはずされた。