大戦当時の中国軍は基本的に車両と榴弾砲を製造する能力はなく、小火器と手榴弾、迫撃砲で戦った。
しかし小火器の選択はよく、WW1で開発された迫撃砲をいち早く導入したため、局地戦で日本軍を苦しめたこともある。
よく言われるのは台児荘の戦いと衡陽の戦いで、
調子に乗った日本軍の前衛部隊が重砲を捨てて来たため、市街戦で両方の火力が抗拮し、兵力差もあって、日本軍が苦戦した。

歩兵第百三十三連隊 衡陽攻略の死闘
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/04/O_04_324_1.pdf

ちなみに迫撃砲の低精度嫌いの日本軍は、迫撃砲導入が遅かったため、後に南太平洋の戦いで迫撃砲不足で痛い目にあった。
(榴弾砲は渡洋輸送難で沖縄戦以外にほぼ使われてない)

話を戻すと、CBI戦域で日本を含めて各国の戦車は基本的に追撃と歩兵支援用で、戦車戦はなかった。
この中に戦車が最も大量投入された戦域はビルマで、中国軍のT26部隊も1942年のビルマ戦に参加した。