>117 名前:霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I :2012/02/18(土) 12:03:50.78 ID:0MbWtLzo
>説明。
>海軍飛行予備学生の採用数が、1943年の13期から急に増えています。

キチガイにかかると、1935年に79名で始まって、1936年まで200名弱、1937年で500名弱、1938年から39年が1000名強、1940年に1600名、1941年に2500名以上って数字は「増えてることにはならない」らしい。

>「パイロットの大量養成の必要性を1943年まで認識していなかった」

認識の問題じゃなく、平時から養成できる予算が分配されているかどうかとういキャパシティの問題。



 てか,手遅れ.

 日本海軍の予科練だと,最初は3年,短縮されて2年を養成に費やす.
 米海軍は12ヶ月で空母搭乗員にしたらしいけど,あっちは自家用車を乗り回す大学生が大量に志願しているのだから,教育の根本部分での手間数が違う.

 予科練だと最初期は,年間80名とかの養成人員で,開戦時に搭乗員がひっくるめても5000名強の規模でしかない.
 昭和17年で8000名,昭和18年で4万4000名を募集しているが,同時期に5万人以上のの練習生が在籍しているのに,練習機が1000機に満たないとかで,養成もへったくれもない.

 昭和19年になると,予科練で12万近い人数を集めているが,それに見合うだけの教育環境が無い.
 練習飛行隊を19箇所に増やしても,1箇所あたりで練習生が5000人以上,どんなマンモス大学だよという話だし,増強されて帳簿上では1600機の練習機でも1機あたりで,70人とか80人になる.
 「予科練出身なのに穴掘りしかしていなかった」と語る人が多いのは,そのため.

 戦没者で見るなら,一般から集めた甲飛乙飛なら昭和17年までの入隊,海軍内部から丙飛であれば昭和18年までが多く,それ以降の募集では極端に…6パーセントとか,0.5パーセントとか…低くなる.
 戦場に出るだけの,あるいは特攻に出すだけの訓練でさえできていなかったことの証明ともなる.

ふみ ◆Y.QUKJBduY in 軍事板,2010/11/07(日)