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で、実際の所大隈はどうだったかというと当然というか案の定というか伊藤達が想像していた通りであった。
増税や支出削減で一瞬たりとも経済が停滞・緊縮化する事をよしとしない超が付くほどの積極経済派の大隈は、
現状において自説が容れられないのであれば自説を容れられるように自らが政権を獲るしかない、
自分が政権を獲るには壁となっている現状の藩閥政治を解体するしかないという考えを持ち始める。

藩閥政治を解体したとしてその後に来るのはどのような政治体制か?政党制議会政治である。
政党制議会政治において必要な物は何か?自らを党首とする政党である。
近からずと言えども遠からず来るであろうその日のための手駒として大隈が交流を深めていく人間の中には思想家として名を成していた福沢諭吉、
福沢の創立した慶応で学びその優秀さに福沢から目を掛けられるも、その慶応をさっさと中退した福沢ですら制御不能の狂犬一号尾崎行雄と狂犬二号犬養毅、
そして三菱の経営顧問である小野義真を義兄に持ち彼の援助で若干17歳の頃にアメリカに留学しその後3年かけて世界を一周、
この経験による高い国際性と法理に対する見識を持つが法制局に入った後藩閥解体を唱えた建言書の提出という頭部への全力ビーンボールを某大臣にぶん投げたり元老院相手に自分も罹患して死にかけたコレラの予防規則や讒謗律の改正などでバチバチにやりあって以来無聊を託っていたところを大隈の推挙で会計監査員に就任していた、
後の早稲田創設者の一人であり彼の名前を冠した記念賞も存在するが多分早稲田の人間でも初見でこれを読める奴はいない名前に使われている漢字として日本一画数の多い六十四画というこれ考えた奴馬鹿だろPCで出せねぇぞこれって思う龍が四つ正方形に並ぶというクソ頭の悪い漢字が幼名に入っている幼名の字数二字総画数六十五画な男小野梓の姿があった。
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