続き
・しかし戦争をしたくなると人はするものだ
・※この後国際連盟で「満州国の成立は認めないから解体してね、でも日本の満州権益は認めるよ」と超譲歩されたのに日本はキレて国際連盟脱退する
・「1931年11月11日渋沢栄一没」1が多い!
・懐かしいなこのシャイダーのEDみたいな山頂シーン
・10の努力に10の結果が返ってくれば楽だけど中々そうはいかないよなあ
・まあ栄一の死んだあと国はアメリカに焼き尽くされましたなんて暗い終わり方よりこういう終わり方の方がいいよね!
・最終回のまとめ:なお栄一の死後まるで後を追うかのように歌子は3ヶ月後、篤二は約1年後、兼子は3年後、そして敬三は31年後に亡くなった
・石原裕次郎みたいな見た目だなリアル敬三
・江戸時代に畑を耕してた農民が霊柩車は自動車とか時代の進歩が凄いな…

なお敬三は祖父の死から13年後に日銀の総裁、その翌年の昭和20年9月には幣原内閣の大蔵大臣に就任。
半年余りの任期の間に預金封鎖、新円切り替え、財産税導入などの大鉈を振るい財産税を導入した者の責任として5000坪の自邸を物納して自らはその敷地の片隅にあった三間のボロ屋に移った後最後の大仕事としてGHQの財閥解体に着手、
三大財閥の百分の一の資産も無い渋沢同族株式会社は財閥指定を受けなかったが「それでは世間が承知せんだろう」という事でこれも解体、
十五年ほどかけて財産整理が終わり同族には高いヤミ電話を一本引くぐらいの値段である二十万円程が支払われた。
かくして明治から昭和にかけて近代日本の経済に巨大な功績を残した「渋沢」の物語は栄一の七男の秀雄曰く「財閥鳴動して電話一本」というサゲが付いて幕を閉じる。