>>334
なお旅順陥落や日本海海戦の後には多数のロシア軍捕虜が発生しましたが、将校の中には捕虜の身分で連日飲む打つ買うの
豪遊を繰り広げる裕福な者もいました。

所謂貴族出身の将校らは元から資産持ちで、投降する際にも所持金の持ち出しが認められたので、収容所生活でも生活に
困る事はありませんでした。

そして松山など大規模な収容所が設営された所では、戦争も末期になると捕虜らも外部への出入りがかなり自由になり、裕福な
将校らは街中の食堂や遊郭に出入りし少なからぬ金を落としていきました。
すると店の方も客のニーズに応えるべく、それまで置いた事のない洋酒やビールや洋菓子を競って仕入れ、日本でなじみの薄い
洋食を提供する店も次々現れました。

それから日本海海戦による大勝で新たに数千人の海軍の捕虜が生じましたが、その中には貴族でも無いのに多額の金品を
持参している者たちも。

実は彼らは自沈したり生け捕りにされた軍艦の将校や主計科の将兵たちであり、軍艦の中の金庫に収められた多額の金品は
主計科の責任で全て海没処分する取り決めになっていました。
しかしいざ多額の現金や金貨銀貨の山を目にすると人間現金な物で、その殆どを主計科将校らで山分けして持ち出してしまい、
一応アリバイ造りの為に小額紙幣や銅貨の類だけを処分して退艦しました。

とは言えこんな所業が将校や艦長クラスに知れたら只では済まないから、共に退艦した将校らにも各々金貨数十ポンド分を
分配して握らせる事で共犯者にする事で追及をかわしました。

こうして投降したバルチック艦隊の将校捕虜たちはポッケナイナイした多額の金品で優雅な捕虜生活をエンジョイしたのだとか。