>>635
7/28は殆どの部隊がアラカン山系に残っていて撤退の目処なんて全く付いていない 兎に角インパール前面から離れろって言う第一段撤収作戦(7\12〜8/16)の丁度中間の日付だ
だから参謀長以下の参謀全員が司令長官の後方視察に大反対した 結果として彼らは牟田口を見捨てる事にしてムッチー一人で下がる事になる しかも以降は一切合切司令官に相談することもやめてしまった 戦史叢書には司令官の行動について隷下部隊から大変な非難があった事をわざわざ記載している
逆に言うと河辺が助かったのはある意味この時ムッチーが逃げたからとも言える 最も撤退戦が厳しく軍司令官が逃げた状況の8月から9月を河辺の方面軍と久野村の十五軍で収拾したんだからな 二人がその後昇進したのは逃げたムッチーに責任を押し付けたからとも言える。
しかし帝国陸軍に限らずだ組織で失敗した時に責任者が逃げたらそいつはお終いだが、代わりに収拾した奴が大変評価されるって言うのは日本の組織あるあるだ 居なくなった前責任者なんてボロクソに言われて全ての元凶にされるのが世の常だからね