サンクトペテルブルグの愛国的共産主義者がルガンスク人民共和国(LNR)軍に志願し、
その後のRubezhnoeでの経験をネットに投稿したものとされる文章。(信憑性は不明) 複数レスでカキコします。

https://twitter.com/mdmitri91/status/1519466321502740482?s=20&;t=h_VAkC-pAvysZsRRdqPMMg

作戦開始当初から"クソ溜め"と知られる場所の通過だった。

3月の初めに旅団はRubezhnoeに向けて北から移動した。
実際に目撃した奴によると、町に続く林道の一つで隊列は停止し、偵察隊を前方に送り込んだ。
偵察隊はウクライナ軍の2箇所の強化防衛地点を発見した。ウクライナ側は何も警戒していないようだった。
続く40分間、旅団は次の行動を決めようとしていた。その間にウクライナ側は隊列を見つけ、
迫撃砲と野戦砲を強力に撃ち込んできた。この攻撃で俺たちの大隊の戦闘要員は実際の戦闘に入る前に半減してしまった。
以下は俺の大隊の事を記す。他の部隊の行動はよくわからない。

(図1)https://twitter.com/mdmitri91/status/1519466328876331010/photo/1
その時は俺はヴィトカ(Vit'ka)とアイリッシュ(Irishman) (*2名とも友人か)と共にLuhanskにいて、今ここで書いている内容の、戦争に志願しようとしていた。
病院にいるアイリッシュの知人が恐ろしい数の200番(*"戦死者"を意味するロシア軍用語)と300番(*同じく"重症者")が出ていると話していたそうだが、
俺は信じられなかった。
後で気付いたが、俺たちがこの地を離れられないのは本来俺たちを輸送するはずの奴らが300番を後送し、200番を識別するのに手一杯だったからだ。
その後、大隊の場所に軽症者が戻ってきて、損害は真実と確認できた。

この敗北の後、大隊は降車して身を隠した。霜と雪、そして砲撃の下で3日間過ごした。発砲は禁じられていた。
大量の凍傷者が損害に加わった。戦闘に移行した時には、おおむね1/3の戦闘要員しか大隊に残っていなかった。
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