昭和17年にミッドウェーの敗戦、11月に日本へB-36計画の概要が伝わってそれらを受けて11月末に社内で第一回必勝防空研究会が開催
この時に中島知久平が語ったのはいわゆる「Z飛行機」(日本→アメリカ爆撃→欧州)
昭和18年1月末に第二回必勝防空研究会が開かれて3月のまとめたのが「第二六発爆撃機」
昭和18年5月27日に社内で「Z機」と命名
昭和18年8月中島知久平が「必勝献策」を発表(妄想兵器のオンパレード)
昭和18年9月陸海軍航空技術委員会で「富嶽」と命名
昭和19年3月富嶽委員会設立(航空機メーカーの共同事業)計画性能を米本土爆撃に修正
昭和19年8月技術的な問題と資材欠乏を理由に計画停止
その後もエンジンの冷却予備実験が続く
昭和20年4月28日富嶽計画の中止が正式決定

富嶽の発動機冷却実験は国本康文氏が研究報告を入手されて「富嶽実験報告」の題で私家版(所謂薄い本)でまとめられてる。