草鹿中将の著作から見るに、作戦当時の一航艦の認識としては米艦隊は真珠湾にいて、日本艦隊出現の報を受けてそこから「出撃」すると考えていたようで、この場合、出港準備等からミッドウェーの戦域到着までに、早くても丸2日位はかかります。
一航艦が知っている米軍との接触は本隊が6月3日に空襲を受けた事で、この前後に発見されたと判断しても、米艦隊の到着は6月4日深夜もしくは5日未明以降になる計算です。実際の海戦は米艦隊が既に待ち構えていた結果、さらに早い6月4日の日中となった訳ですが。
戦域到着にかように時間がかかる状況では、6月4日に「出現ノ算」があったのならともかく、「出撃ノ算」ならあってもなくても、基本的にその日の判断にはあまりに影響は無いかなと。

なお、この「出撃ノ算」を米母艦航空隊の「出撃」まで含めた「米機動部隊出現」の意、もしくは「ミッドウェーからの出撃」の意と仮定すると、上記の一航艦の情勢判断と著しく乖離しますから、起案そのものがおかしいことになります。なので、文字通りの「(真珠湾からの)出撃」を意味すると解釈して良いかなと。