淀川のクジラが死んだという事で

日本において捕鯨が基幹産業だったのは古来の捕鯨文化がバックボーンにあるわけだが、軍事的な目的で振興された側面がある

というのも、やはり捕鯨で最重要視されたのは鯨油なので、捕鯨船は戦時下にはタンカーに転用でき、船員もそのまま横滑りで使えるという石油資源の乏しい日本ならではの切実な理由があったのだ

ついでに土佐閥の元勲からの後押しもあるので、捕鯨船乗りは国家を背負う自負も給料も他の船乗りより段違いに高かった

サラリーマンの月給百円、長屋とライカが千円という時代に見習いでも月給二十円、鯨を一頭見つければ歩合が数十円(かなり頻繁に見つかった)で、地獄の蟹工船とはえらい違い

これが捕鯨砲手ともなれば一航海数万円で海軍大将でも及びもつかない有様であるが、砲手に大金を払うのはやはり日本の貧しさに起因する

昭和初期に至るまで捕鯨砲手は本場ノルウェーから雇っていて、外貨払いの高給が経営を圧迫する上に威張って士気を低下させるので、何が何でも日本人砲手が必要だったのだ。つまり、この額でもノルウェー人を雇うより安いくらい日本は貧しかった

さて、諸々の苦労の末に戦後に至って捕鯨大国の地位を得た日本だが、元軍事技術者が交通産業を世界水準に発展させたように、捕鯨も海軍の遺伝子が活力を与えた

利根の艦長だった黛治夫大佐がその最たるもので、砲術畑の急先鋒として培った知識を捕鯨砲手の育成に活用し、平頭銛の発明とともに捕鯨砲の命中率の劇的向上への功績大だった

捕鯨砲手の出身地を紐解くとコネを持つ捕鯨基地近くの出身者が当然多く、一方で対極にある海無し県が目立つ

これは海の無い場所に生まれただけに却って海に憧れを抱き、また群馬出身である黛の後押しがあったからだという