>>591の続き

フラワーコミックス(小学館)から全17巻。白泉社文庫版全10巻。愛蔵版(中央公論社)全4巻。中公文庫版全8巻。2007年の時点で490万部が出版され、
少女漫画としては歴代53位[1]。 1987年には、安彦良和監督の下、同タイトルでアニメーション化された[2]。

寺山修司は「これからのコミックは、風と木の詩以降という言い方で語られることとなるだろう」と語り[3]、
河合隼雄は「少女の内界を見事に描いている」と評し[4]、上野千鶴子は「少年愛漫画の金字塔」とした[5]。

竹宮の親友で大泉サロンの主催者増山法恵(当時は「のりえ」)の影響は大きく、増山は少年愛(クナーベン・リーベと呼んでいたという)を竹宮と萩尾に教え、
優れた少年愛作品、自分が読みたい作品を書いてもらうために、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下』『デミアン』、稲垣足穂『少年愛の美学』などを紹介した[6]。

竹宮は『少年愛の美学』を夢中で読んでいたという[6]。 竹宮は構想から1976年の発表まで7年の歳月を費やしたと述べており[7](つまり竹宮が構想を
始めたのは上京前の1969年頃ということになる)、増山は竹宮が20歳の時に誕生したと語っている[6]。
竹宮は一夜にして物語のプロットを頭に描き、翌日増山に8時間かけてストーリーを話した。

竹宮は「いちばん最初に『風と木の詩』を描こうと思った時点、(稲垣足穂の)『少年愛の美学』を読んだ時点で、わたしの描こうとしているものをはっきり
確信した」と述べており、『少年愛の美学』から舞台をパブリック・スクール的な場所にすることが選ばれた[6]。
漫画化されたのはプロットの前半のストーリーであり、後半は主にセルジュのその後の人生であるとされる。
(中略)
物語にリアリティを出すために、意識的にディティールが描かれた。1
970年代の東京でヨーロッパの情報を入手することは非常に難しく、ルキノ・ヴィスコンティなど大量の映画、洋書店巡りで入手した服飾・壁紙・家具の歴史の
洋書などを研究し、1972年には増山、萩尾望都、山岸凉子の4人でヨーロッパ旅行を敢行し、細やかで厚みのある19世紀末フランスの描写がなされた。
竹宮は同作を、ヴィスコンティ映画の影響を受けた最初の作品であると語っている[6]。