河内型戦艦のwikiによると、このクラスが上部構造物前後の首尾線上の主砲だけ長砲身になったのは
一説には東郷平八郎の「首尾線方向への火力は強力にすべきである」という鶴の一声のせいとも伝えられていますが
首尾線方向特に正面に向けられる火力を重視する設計思想は横陣の衝角戦が強いとされていた日清戦争までの思想で
この思想は縦陣での舷側を向ける砲戦が横陣の正面砲戦を打ち破った黄海海戦で否定され
以後は首尾線上ではなく舷側方向に向けられる火力が重視される時代になったはずです
にも拘らず日清・日露戦争を舷側砲戦で戦った東郷が首尾線方向の火力を重視する砲戦思想に至るのは不可解です
まさか「痴呆で砲戦のセオリーを忘れたから」なんて事は考えられませんが、何故そんな主張をしたのでしょうか?