>>364の続き

(薩摩藩の)琉球侵攻
(前略)
戦後処理

4日、国王下城。名護親方の屋敷に移った。5日から「城内之荷物御改」すなわち宝物の目録作成が開始された。12 - 13日かかった。
16日、崇元寺において、樺山、平田と尚寧王が対面した。5月15日、尚寧王は鹿児島へ出発した。

翌1610年、尚寧は、薩摩藩主島津忠恒と共に江戸へ向かった。途上の駿府で家康に、8月28日に江戸城にて秀忠に謁見した。
忠恒は、家康から琉球の支配権を承認されたほか、奄美群島を割譲させ直轄地とした。

1611年、尚寧と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文に署名させられた。
これを拒んだ三司官の一人、謝名利山は斬首されている。
また、琉球王国の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督することとなった。
以降、尚氏代々の国王と三司官は琉球処分までこれらの義務を継承した。
こうして薩摩藩は第二尚氏を存続させながら、那覇に在番奉行所を置いて琉球王国を間接支配するようになる。

以後、中城王子(王世子)の薩摩への上国、および尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)
を江戸上りで派遣する義務を負い、また琉球王国と清との朝貢貿易の実権を薩摩藩が掌握するようになった。
薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられたが、清にも朝貢を続けた。
薩摩藩は、江戸へも琉球の使節を連れたが、その際の服装は、王国に清帝国使節が来た際に用いる中華風のものを着させた。

また侵攻当時、トカラ列島は薩摩国寄りの日琉両属体制下にあり、奄美群島は琉球王国の支配下にあったが、侵攻後は与論島までの領域が薩摩藩
直轄領となった。 ただし名目上は王国の一部とされた。なお、正式には1613年(慶長18年)の代官所設置により直轄支配下となる。
奄美群島は時代が下る明治維新後の廃藩置県により鹿児島県に、追って1879年(明治12年)4月の太政官通達[26]により大隅国に編入され、日本の領域となる。