>>555
この主張は、政治制度の変化を科学技術や生産手段の発展に還元する点で、典型的なロシア式マルクス主義史観に基づいている。確かに唯物史観では、社会の制度や意識は経済的土台によって規定されるとされるが、現実の歴史はそれほど単線的ではない。

特にソ連では、マルクス主義史観がロシア伝統の権威主義体質と結びつき、制度的自由や権力分立を軽視する体制が構築された。秘密警察による監視と弾圧は国内だけでなく東欧の衛星国にも拡張され、ハンガリー動乱やプラハの春など民主化の試みを武力で押さえ込む事例が繰り返された。

ロシア式の共産主義を受け入れた中国では毛沢東の下で展開された大躍進政策と文化大革命により、数千万規模の死者が出たとされる。特に文化大革命では、知識人や宗教関係者が迫害され、制度的自由はほぼ消失した。

カンボジアでは、ポル・ポト率いるクメール・ルージュがロシア式共産主義の流れである毛沢東思想に影響を受けて急進的な共産主義体制を構築し、1975年から1979年の間に約150万~200万人が犠牲となった。これは当時の人口の約4分の1に相当し、知識人や都市住民、宗教関係者が体系的に粛清された。この政権は中国共産党から軍事・経済支援を受けており、マルクス・レーニン主義に基づく社会改造が直接的な背景にあった。

こうした事例は、ロシア式マルクス主義史観が制度的自由や権力分立を軽視し、権威主義的体制と結びついた場合に、社会に深刻な災厄をもたらす可能性があることを示している。制度は自動的に成立するものではなく、理念・文化・政治的選択の積み重ねによって形成される。歴史の変化を物質条件だけで捉える視点は、制度的自由の意義や権力分立の防波堤としての役割を見落とす危険がある。