>>251
1940年7月に参謀本部は時局処理要綱で英米分離に努力するとしたが、三国同盟締結後のアメリカ政府の対応が極めて強硬となり武器貸与法が成立した情勢変化から1941年4月の対南方施策要領で英米不可分の方針に大日本帝国の国策は決定した
実際問題としてABDA四カ国による対日軍事同盟の議論がシンガポールで始まったのは1941年3月であり、この段階でイギリス・オランダとだけ戦うと言う選択肢は不可能になっていた 参謀本部は暗号解読でABDAの会議動向を承知しており田中作戦部長は4/24に米政府が発表した「半球防衛計画大二号」により米海軍が英船団をUボートから守る哨戒活動が実施される事から米国の対独参戦は不可避であるとの結論に至って「米参戦と対策」を纏めて部内に展開している
日本が南方進出すれば英米と戦争になるのは明白であるがアメリカがドイツに対して戦端を開いた場合でも三国同盟の条項から日本に参戦義務が生じる 田中はその場合はシンガポールとフィリピンに攻勢をかける事を明記している