稲垣高広(仮面次郎)@kamenjiro
本日(9/24)は、テラさんこと寺田ヒロオ先生のご命日。
テラさんは、子どものためになる良い漫画を届けたい、という思いをずっと持ち続けた漫画家です。
そんなテラさんが“良い漫画”を意識するようになった端緒は、漫画が悪書と言われることへの防衛(反発)でした。


喜多野土竜 ?@mogura2001
悪書と呼ばれないように、一部の世論に迎合した寺田先生と、叩かれようとバイオレンスやエログロナンセンスを貫いた作家。

直接批判された、さいとう・たかを先生は最晩年まで仕事を抱え。 寺田先生は、漫画家の中でも孤立した。

自分の理想を持つのは良いが、それを他の漫画家や出版社に押し付けては、やはり厳しい。
ならば自分で出版社を作り、理想の本を出すべきで、作家が編集権に介入するのも、越権行為だろう。

有害図書運動をやった連中は、なんの反省もなく、責任を取ることもなかった。
今、表現規制を叫んでいる連中も、同じことだろう。 この件は、示唆的だと思う。
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1960年代からの漫画業界は、劇画ブームの影響から、リアルで映像的な画調と刺激的なストーリーがもてはやされるようになり、
正統派児童漫画だけ書き続ける寺田の作風は、時流からも取り残される形になっていった。

寺田は劇画ブームへの強い反感を示し、仲間内での集まりでもこれを度々批判した。
安易な劇画ブームへの批判に同感だった仲間たちも、会う度に批判だけを繰り返す寺田の言動に、かつての頼もしさを感じなくなっていった。

さいとう・たかをによれば、一面識もない寺田から突然手紙が届き、「そういう低俗なものを描くな」と諭されたことがあったという。
最後には、自分が執筆している雑誌の編集長に、劇画作品の連載を全て打ち切るように進言するという荒っぽい行動まで出たが、
独善的な考えも目立ったために聞き入れられず、周囲からも反感を買い、逆に自分の連載が打ち切られるという顛末となった。

寺田は『えすとりあ』季刊2号(1982年)で、「ちょうど高度成長の始まりで、大きいことはいい事だ。儲けることは美徳であると、モーレツ時代に
突進して行ったわけで、漫画も雑誌もドギツク、エゲツナクなる一方で」と批判的に語っている。(続く)