いわゆる「死体の交換比率」から損耗を推定する話は、軍事分析の世界ではまともに扱われていない。現代戦では双方の死者数を正確に把握することが不可能であり、比率計算の前提となるデータが存在しないからだ。国連、NATO、IISS、RUSIといった信頼できる機関のどれも、死者数を比率で推測してはいない。戦況分析の基準は、損耗率よりも補給線・兵站・装備再生力・戦略目標の達成度といった、客観的かつ継続的に観測できる指標である。
したがって「交換比率」や「死体数の比較」で戦況を語るのは、プロパガンダを信じているか、戦争を数値遊びとして消費している層の言説にすぎない。日本人がそのような推測に一喜一憂する理由はない。

さらに言えば、仮に損耗がどちらに偏っていたとしても、それをどう受け止め、どの段階で戦争を終わらせるかはウクライナ人自身の判断である。侵略を受けているのはウクライナであり、彼らがどこまで抵抗し、どの条件で停戦するかを外部が指図するのは筋違いだ。日本がそれを「助言」の名で圧力のように語るのは、被害者の自己決定権を奪う行為にも等しい。

国益の面でも、ウクライナに「諦めて停戦しろ」と言うことは、日本の安全保障を自ら損なう行為だ。力による現状変更を容認すれば、それは台湾・尖閣・北方領土に直結する前例となる。国際的にも、法とルールを掲げてきた日本が、侵略の固定化を認める発言をすれば信頼を失う。

そして道義の面でも、数値化された死者の比較をもとに「もう抵抗するな」と言うのは、人の命を数字で測る思考に他ならない。戦場で死んでいるのは単なる「比率」ではなく、誰かの家族であり国民だ。彼らの闘いと選択を、外から“効率”の言葉で裁くのは不遜であり、道義的にも不当だ。

結局のところ、「死体の交換比率」も「損耗の比較」も、現実の判断材料にはならないし、日本人がそれを論じて停戦を勧める理由もない。日本の立場はただ一つ、侵略の正当化を拒み、被害者の選択を尊重すること。国益の上でも、国際的な道義の上でも、それ以外の立場を取る余地はない。