>>350
確かに今のウクライナは戦時体制で、報道や政治活動の自由が一部制限されている。だが、それは恒常的な統制ではなく、法的にも戒厳令下での一時的な措置だ。戦争が終われば復活する余地がある。実際、戦前のウクライナは欧州評議会加盟国であり、国際監視の下で複数の政権交代を経験している。2010年には親露派ヤヌコビッチ、2014年には親欧派ポロシェンコ、2019年にはゼレンスキーが選挙で勝っており、民主主義が機能していた。つまり、ウクライナは少なくとも「選挙による政権交代」が可能な国であった。

一方ロシアは、2000年以降一度も自由選挙による政権交代を経験していない。野党指導者は拘束や暗殺、報道機関は国家統制下、裁判所も大統領の任命制であり、戦時でなくても政治的自由は存在しない。ここがウクライナとの決定的な違いだ。ウクライナの抑圧は「戦時下の例外」で、ロシアの抑圧は「体制そのものの構造」に根ざしている。

北朝鮮や中国共産党のようなイデオロギー的独裁と違い、ロシアの権威主義は治安機構とオリガルヒ資本による統治だが、結果として市民の自由はほぼ同程度に制限されている。選挙は形だけ、報道は検閲、批判者は刑務所か国外。こうした状態が20年以上続いており、制度としての自由選挙がそもそも存在していない。

「ウクライナもロシアも自由がない」というのは、自由の“停止”と“不存在”を混同している。戦争が終われば回復可能な国と、平時でも戻らない国は同列に語れない。親露化した国が再び自由を取り戻した例がないことを見れば明らかだ。ロシア型体制は、北朝鮮と同じく「一度入れば出られない」構造である。