美術館に一歩足を踏み入れた瞬間、男は驚いた。
郷愁に襲われたのだ。
赤い絨毯と、金色の額縁の目立つ豪華絢爛な内装。
それらを完璧に調律しているピアノはドビュッシーの月の光という曲だった。
壮年にさしかかった男の足つきは頼りなく彷徨う。
男はこれまでに自分を思い悩ませていたあの強度な自戒の念が消失していくように感じた。
すべてを手放したように男は恍惚の表情で一枚の肖像画の前に立った。
『少女イレーヌ』という絵だ。

男の首元で声がする。
「この子だれ?」
男は振り向かずにその声に答えてみた。
「可愛い女の子だね。だれだろう。」
男にとってあまりに馴染み深く、まるで誰の声でもないかのようだ。
「だれが描いたの?」
「ルノワールって人だよ、聞いたことないかな」
「生きてる人?」
「いいや、ずいぶん前に亡くなっているはずだよ」
「わたしもね?工作の時間に絵を書いたんだよ」
「うん」
「その絵がね、駅に飾られたの」

迫りくる雑踏に鈴を鳴らしたようなその声はかき消された。
気付くと男は駅のプラットホームのベンチでうなだれていた。
その駅の掲示板には子供がクレパスで描いたであろう似顔絵が展示されている。
それを熱心に鑑賞する若い女が一人。
「もう帰ろう。俺は眠いんだよ。昼まで少し寝たい。」
男が言うと小さな子供が必死に女に寄りかかって何かを訴えている。
すると女が眉をひそめて男に向かって声を出さずに凄んだ。
少しだけ面食らった表情で男は後に習って、向かいのホームへの階段を登っていった。
福知山線沿いの古びた住宅街が通路を流れてゆく。
ガタンゴトンと揺れる列車の中で、男は自身の生活を振り返っていた。
見上げると向かいに座った女と子供がなにやらクスクスと談笑をしている。
二人とも自由気ままな気分屋だったことを男は想い出した。
もうすぐ終点駅だ。
ふと女の頭上に目が止まる。
ハットをかぶった外国人の絵だった。
『ルノワール展ー幸福を描いた印象派画家』

そこでピアノの旋律が途切れた。
男はルノワールという印象派画家の黒い目に吸い込まれそうになっている自分に気づいて我に返った。
気づけば時計は夕刻を指している。
金縁のなかのハット帽を被った青年に別れを告げて美術館を後にした男は絵を描こうと思った。