昼から夕方まで、濡れ縁に胡座をかいていた。
 金木犀の季節であった。
 私は生まれついての短気で、興が醒めればすぐ立ち上がってしまう。
 その後に手を付けることもなければ、狭い家の中を彼方此方と歩き回る癖すらある。
 先日などは、とうとう台所に立ち入って、家内に小言を言われた。
 庭の松の木をいつまでも眺めていられるような、老爺気質はとんと持ち合わせてはいない。
 それでも私は、川に縫い針を垂れる太公望の如く、濡れ縁に居た。
 無論、文王を釣る腹積もりのあるはずもない。

 竹垣の向こうに、足音が増えてきた。
 私の家の垣は低く、行き交う人々の首がひょこひょこと見える。
 運動を終えた学生どもやら、仕事仕舞いをした職人やら、夕の買い物を終えたご婦人やら。
 人が歩けば風が吹く。
 風が吹けば向こう隣の金木犀が香る。
 秋であるのに、風の無い日だったのだ。

 私はやっと得心して、部屋に戻った。
 金木犀は確かに私の鼻孔を通った。
 それで今日の仕事は終わったつもりになっている。
 私の一日は、あの金木犀であった。
 何故に金木犀に固執していたのか、私自身にもとんと分からぬ。
 けれども季節の花が、花弁を開いておきながら香らぬというのは、なんとももどかしいことである。
 私は竹垣の向こうに金木犀の梢を見ながら、その香りの運ばれてくるのを待っていたのだ。
 老爺のような秋雲の心境ではなく、黄色いちらちらした花に、香りのないのを焦れながら、である。
 焦れながらといっても、不思議と不快ではなかった。
 オオギュスト・シャルティヱの言うに、ねじれ錐で石壁に穴を穿つ、気の遠くなるような仕事を、鼻唄をうたいながらやる左官屋は幸福だそうである。
 私はこの濡れ縁で、目には写らぬ、ねじれ錐を回していたのやも知れぬ。
 思いのほか身体が冷えていて、女中に綿入れを出してもらった。
 綿入れからは、樟脳の匂いがした。
 確かにこれも金木犀の如く、季節に香るものに違いない。
 樟脳の匂いにくるまれて、鼻の奥にはまだ金木犀が残っている。
 これは夢に出てくるなと思った。