773 名前:第五十八回ワイスレ杯参加作品[sage] 投稿日:2021/12/10(金) 18:02:23.03 ID:l5paLF6Z
 その男が長平長屋にやって来たのは、木枯し吹き荒ぶ霜月も末のことだった。
 見てくれは二十歳過ぎあたり、若そうだがやせぎすで人相も悪い。そして着物の裾から覗く左の脛に大きな傷跡があった。
「今日から入る、松吉さんだよ。仲良くやっとくれ」
 大家の長平が井戸端に集っていた女房衆に紹介したが、俯いたまま挨拶もない。
 その後も毎日何をしているのやらいないのやら、部屋に籠ったまま仕事に出る気配もない。長屋の連中は大層気味悪がり、戸の隙間から覗いてみたりしたが、寝転がったまま天井を見上げているだけの様子だった。
 ところが数日後、長屋を訪ねて来た客人に皆は驚いた。
「こちらに、松吉さんという方はお住まいですか」
 歳の頃は十五・六、仕立ての良い振袖に身を包んだ育ちの良さそうな娘だ。
 女房の一人が奥を指差すと、娘は「有難うございます!」と頭を下げ、大ぶりの風呂敷包みを手に部屋へと向かった。そして戸を叩きながら「松吉さーん!入りますよー!」と、返事も待たず中へ入って行く。程なく怒鳴り声が響いて来た。
「てめえ、どうしてこの場所を! 何しに来やがった!」
「あたいから逃げようったって、そうはいきませんよ! あんたの居所なんて、ちょいと調べればすぐ判っちゃうんだから!」
「うるせえ! とっとと出て行きやがれ!」
「はいはい、このお重を置いたら帰りますよ。どうせロクなもん食べてないんでしょ」
 だが娘は一向に帰る気配はない。「出ていけ!」「はいはい」と松吉をあしらいながらドタバタとどうやら掃除でもしているらしい音を響かせる。そして日が暮れた頃ようやく出てくると、女達にペコリと頭を下げ意気揚々と帰って行く。
 暫くすると「畜生!」と松吉が飛び出して来た。
「松吉さん、どこへ行くんだい?」「うるせえ! 女買いに行くんだよ!」
 と、左脚を引き摺るような不格好な足取りで駆けて行った。