幼くてもいい。現実の中で真実を求める気持ちを大切にして行く。
偽りを大人と思う。それはつまりません。真を打たない、熱さも、熱も、伝わらなく
て。面白いと思うことに、違いなどあるでしょうか。勤勉であるがゆえに、偽りに
学ぼうとするのか。その時に、主軸がぶれ、自分自身の価値観も揺らぎ見失うかも知
れないです。生きている意味を見出さなくなったり、するのかも知れません。
私が、こんな事を言えないのですけれど、正しいとされる価値観が間違いであった
時、その時には辛いことと思います。常に正しさについて思い馳せていなければ、
そして、身を正す努力をしていなければ、それは、自分自身で感じ考えて行かなけれ
ば、間違いが起こると思います。その間違いは正しさとなって考えることを、
取り戻すのかも知れません。生きる意味を見逃すな。そんな風に厳しさとともに
気づきは行われるのかも知れないです。思考を奪わない。それこそ正しさであるように
も感じますし、無言の中でも心の想いはあるかと思います。それぞれにペースや
理解、納得。環境や状況も違う。一律の正しさは思考を奪い、感情に流れ衝動に
至るのかも知れないです。その事について、少しでも思考することは、
間違いではないと思いますし、その中で自分の結実を大切にして行ければ、そして
言葉や行動にする時にも、自分の中の思考でしか表せられないと感じます。
表現の幅を身につけて行きたいのならば、思考する事をやめない事。そして
そんな幼い自分が恥ずかしいがために、思考を放棄しない事。自分を大切にする。
そのことは、のちに大きな幸福となって自分自身に自信を持つことができると
そう思います。目先の事にとらわれ過ぎずに、一度でもそんな時間を過ごせて行ければ
幸せの意味についても、真実が応えるでしょう。