@@ 戦時中・戦場でのほのぼのとした話し 13 @@©2ch.net
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ここは戦時中、戦場、及び軍隊内での「ほのぼの」とする話しを楽しむスレです。
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前スレ:
@@ 戦時中・戦場でのほのぼのとした話し 12 @@
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/army/1388931390/
まとめサイト:
http://gunji.blog.shinobi.jp/ >>787
旅客機はパシフィック、貨物機はミカドなんだろうな。 なんだろうなも何も、仏式の231は米式でパシフィック、仏式の141が米式でミカドで、呼び方の違いだけだぜ 山口号はこの前引退したって、ニュースでやってたぞ。 やまぐち号に使われていたC56型160号の、JR営業線引退のことだね。
大井川鉄道で今も走っているC56型44号は、160号に比べて運転台の屋根が平らに削がれ、
煙突も短い。
C56型蒸気機関車は1号から90号までが陸軍に徴用され、
1メートルゲージに改造された上で、全機が泰緬鉄道用の軍用機関車として投入されたが、
泰緬鉄道の鉄道規格に合わせ、できる限り高さを切り詰めなければ入線できなかった、
また、オリジナルのC56型の運転台、丸屋根に比べて平らに削がれた屋根は、
戦闘の折に軽機関銃を据え付けやすくなっていた・・・というのだが、
のちに泰緬鉄道を襲う連合軍機の空襲相手には、
たかだか軽機関銃1丁でどうなるものでもなかった・・・。
奇跡ともいえる里帰りを果たし、今も走る鉄道連隊の勇士44号機、
160号がJR営業線から引退したあとも、長く走り続けていてほしい・・・。 やまぐち号に使われていたC56型160号の、JR営業線引退のことだね。
大井川鉄道で今も走っているC56型44号は、160号に比べて運転台の屋根が平らに削がれ、
煙突も短い。
C56型蒸気機関車は1号から90号までが陸軍に徴用され、
1メートルゲージに改造された上で、全機が泰緬鉄道用の軍用機関車として投入されたが、
泰緬鉄道の鉄道規格に合わせ、できる限り高さを切り詰めなければ入線できなかった、
また、オリジナルのC56型の運転台、丸屋根に比べて平らに削がれた屋根は、
戦闘の折に軽機関銃を据え付けやすくなっていた・・・というのだが、
のちに泰緬鉄道を襲う連合軍機の空襲相手には、
たかだか軽機関銃1丁でどうなるものでもなかった・・・。
奇跡ともいえる里帰りを果たし、今も走る鉄道連隊の勇士44号機、
160号がJR営業線から引退したあとも、長く走り続けていてほしい・・・。 小学生の頃鉄道雑誌読んで知った知識だが、
塚本さんという方がタイからの帰還に尽力されたようですね。 2両帰ってきて、もう1両は遊就館にいるな。
…あっち方面が捕虜や原住民の強制労働の象徴といちゃもん付けてるが、安住してもらいたい。 日本海軍、ある主計科の下士官が除隊のときに「じつは・・・」懺悔した話。
この下士官が若いころ、艦の烹炊所で朝食のめし炊き作業をやっていたときに、
ふと思いついたのが「めし炊き釜に入ってひとっ風呂浴びてみたい」。
六斗炊きの飯釜、上縁は差し渡し1メートル20センチもあり、
五右衛門風呂には充分な大きさ。
大きな艦ではなかったため、朝飯を焚く当直は交代で1人だけ、と、くれば、
ある朝、ためしに米を入れる前、ほどよい湯加減のときに素っ裸になって釜に入り、
五右衛門風呂を決め込んでみると、これが病みつきになり、
3日に1度、当直が回ってくると少し早めに烹炊所に入ってドアに鍵をかけ、
贅沢な朝風呂を楽しむようになったという、
だが、水が貴重品の軍艦で、朝風呂の残り湯を捨てるようなことはせず、
そのまま残り湯で飯を焚いていたことが、後々まで気になっていたのか、
除隊後になって懺悔に及んだそうな。 烹炊所のドアってやっぱり鍵付きなんだな。
夜中に泥棒入りそうだもんな。 >>801
「海軍めしたき物語」にも、
戦艦「霧島」で、主人公の高橋3等主計兵がいきなり貯蔵庫の鍵を渡され、
「砂糖を出してこい、急げ」と命令されるくだりがあるよなあ。
高橋3等主計兵、貯蔵庫へ急ぐと思いきや機関科に走り「砂糖を出しにいきます、急いでください」。
機関科の旧兵がギンバエ袋(食料かっぱらいに使う手製の袋)を持ってついてくる、
ギンバエ袋にぎっしり詰めた砂糖を渡し、次いで命令の砂糖を入れて烹炊所へ、
・・・下っ端3等主計兵に鍵まで渡して命令された、というのは、
機関科にそれなりの心づけをしておかないと水もスムーズにはくれない、
心づけを艦内の隠語でいうと「色気」のつけ方をウエがそれとなく教えてくれたのではなかったか、と・・・。 それでも足りなくならないほどガバガバな見積もりが通ってたんだろうな、補給側もいつあるか確約できんって事情もあるだろうし
んでその管理とか見通しのゆるさがつもりつもって敗戦って思うとあんまりほのぼのともしてねえ その辺の世慣れたふるまいを海軍ではスマートだと言って評価してたのかも
海軍のどこかの学校で冗談にならない粗相をした人が逃げ回って大変なことになったが、とうとう捕まらないまま逃げおおせたので、「逃げおおせたのはスマートだ」と言ってそれ以上の追及がされなかったってのを何かで読んだ。これ何の話だったかな。 >>805
ベトナム戦争時の米軍、また、米軍援助下の南ベトナム政府軍に対する、
補給物資にも似た話があるとどっかで聞いた。
補給物資が必ず前線部隊に全て行き渡るとは限らない、輸送途中の損耗や敵襲による損害もありうる。
そのため、補給物資は全て必要数の110%以上をアメリカ本国から送り、
前線部隊では100%の充足ができる・・・はずの仕掛けまではいいけれど、
これが膨大な「員数外」を生みだす元凶になり、
ことに南ベトナム解放戦線や、その背後にある北ベトナム軍への横流しが常態化していた南ベトナム政府軍では、
米軍にバレずに私腹を肥やす軍人が上から下まで山ほどいた一方、
南ベトナム解放戦線は新品のM16自動小銃をはじめとした最新武器で武装でき、
「敵を利する」どころではなかったとか・・・。 中国は北京「三里屯」地区。
在外公館が集まっており、中国当局の警備下に置かれている地区だが、
付近には「ハードロックカフェ・ベイジン」ほか、
在外公館員向けのしゃれたナイトスポットがあり、北京の若者に人気が高い地区でもある。
さて、飲みに行きますかぁ、と、財布だけ持ってホテルを出たおれ、
三里屯の路地で、バリケードにひっかかり、
突っ立っていると人民解放軍の兵士がすっ飛んできた。
武装警察や公安ではない「帰ってきた経済開放直後」のような、装備の古い兵士だったが、
「ぱーす・ぽうと!」・・・しまった!パスポートをホテルのセイフティボックスに預けたままだった!
「そーりー、あいどんとはぶぱすぽーと、ばっと、あいあむじゃぱにーずびじねすまん」
「ぱーす・ぽうと!」
「そーりー、あいあむおんりーじゃぱにーず・・・」
ここまで言ったところで、兵士が腰のホルスターに手をかけ、
そりゃもう、走って逃げたのなんの。
・・・逃げて周りを見渡すと、建物ひとつ分しか離れてない隣の路地にはバリケードもなければ警戒の兵士もおらず、
ごく普通に堂々と歩いて通れる。
”これって警備ザルじゃねーの?フツーさあ、裏路地にもせめて警備の兵隊、置くだろ?
誰一人おらんぜ?ってことは、私服の公安すらおらんだろ?”
飲んでの帰り道、酔った勢いで三里屯の中をうろうろしてみたが、
やっぱり「解放軍うようよストリート」と「誰もいないストリート」があり、
・・・パスポート持ってないから、これ以上はやべーわ、
この警備・監視体制って「ここは中国」以外に説明がつかんわな、と、探索を中止、
「ハードロックカフェ・ベイジン」に転げ込んだら、
平日の夜なのに、ほとんどヤケみたいな勢いでタテノリやってる欧米人の在外公館員、
ザル警備・監視に囲まれてストレスたまるんだろうなあ、と思った・・・。 戦場でもないな。
まぁ、軍絡みってことで勘弁してやれよ。 これもアメリカの歴史フォーラムで見た話。
WW2欧州戦終結の直前、イギリスは北イタリアに残るドイツ軍司令部を壊滅させることを決めた。パラシュート降下の英軍コマンドが送り込まれ、現地パルチザンと共同でこの任務を果たすことになった。
英軍コマンドが現地に到着すると、ともに戦うパルチザンのメンバーはイタリアの捕虜収容所から脱走したソ連軍兵士の集団だった。
ソ連人を信頼できない英軍コマンドは自分たちだけでドイツ軍司令部に向かった。これに気付いた周辺のドイツ部隊が集結し、司令部を守るために英軍コマンドに肉薄してきた。
英軍コマンドは自分たちが蹂躙される前に任務を果たすべく迅速にドイツ軍司令部を壊滅させ、その後直ちにドイツ軍の攻撃に備えた。
ところがドイツ軍が来ない。周辺で大規模な銃撃戦が行われていたが、ドイツ軍が来ない。結局、脱走ソ連兵パルチザンがドイツ軍を撃退していたことがわかった。
その後すぐに終戦になり、英軍コマンドはソ連兵パルチザンをソ連行きの列車に載せて帰国させろとの命令を受けた。この命令は米英ソの間での取り決めに基づく命令だった。
しかし英軍コマンドの指揮官はスターリンが戦争中にソ連兵に降伏を認めない命令を出していた事も知っていた。
命令に従えばドイツ軍大部隊と戦って自分と部下を守ってくれた勇敢なソ連兵パルチザン、しかし一度は降伏し捕虜になった彼らをソ連への死の旅に送り出すことになる。しかし英軍の指揮官としてこの高度に政治的な命令に従わないわけにはいかない。
そこで英軍コマンド指揮官は命令を吟味し、「自分の任務はこのソ連兵をソ連行きの列車に乗せることである。その後に起こることには自分の責任ではない」と決めた。
ソ連兵たちは駅に連れていかれた。貨車の側面の扉が開かれ、彼らは貨車に乗る。扉が閉じられた。しかし反対側の側面の扉も大きく開かれていた。彼らはそのまま貨車から降りた。列車が動き出し、英兵は消えていた。そしてソ連兵もイタリアに消えていった。
彼ら、パルチザンソ連兵の多くはその後イタリアで結婚し、イタリア人になった。南米に渡って余生を過ごした人たちもいた。英軍コマンド指揮官は求められた任務をすべて果たしたとして何も責任を問われなかった。 まるで頓知話だな。
機転が利くってこういうことか。 いかにもブリテン人がやりそうな感じ。
嫌いじゃないぜ。 児島襄の「マニラ海軍陸戦隊」より
マニラ市内から米軍に追われて逃げる陸軍の一団が
フィリピン人の住宅街に隠れたところ
とある家の中を覗いたら麻雀をしていた。
隊長は麻雀も好きだったのでつい見ていたら
そばで部下が「チー、チー」と言うので
隊長は内心「馬鹿、ポンじゃないか」とささやきかえしたが
実は部下はフィリピン人が通りかかったので
とっさにフィリピン人特有の呼び声を出して切り抜けたという訳。
この隊長、他にも数人で米軍の見張りの前を「酒屋に使いに行く下男の足取りを真似た」感じで小走りに無表情に通過したりして
なんとか脱出に成功した。
証言した側か書いた側かが話盛ってる気がしなくもないが
全体的に悲惨な話の中で少しほのぼのしたので一応書き込み >>822
児島襄にしては、珍しいよもやま話だな。
時には読んでいて苦痛になる来るくらい出来事の羅列が多い文章なのだが。 この前のアフガンの米特殊部隊の話は泣けた><;
それとイランからの6人救出もなw
ほのぼのいうよりヒヤヒヤだったがw >>824
証言からまとめたせいか、出来事の羅列どころか
吉村昭の小説っぽい感じの作品だった
珍しいね ベトナム戦争時の米空軍。
タイのウドーン基地で
のちに北ベトナム空軍のミグを5機撃墜し、エースとなるクルー、
リッチー大尉、デブルーブ大尉の乗機、F4を整備していたクルーチーフ(機付長)が、
レジー・テイラー軍曹、物静かな黒人の青年だった。
いつもの出撃なら、帰投したリッチー大尉と、
「今日のフィッシング・トリップはどうでしたか?」
「良くなかったよレジー、一匹も当たらなかったよ」
「きっと餌が悪かったのでしょう」と、いつに変わらない会話があったのだが、
1972年8月28日、リッチー大尉、デブルーブ大尉組のF4、コールサイン”ビュイック01”が、
北ベトナム空軍のミグ21を撃墜し、彼らがエースとなった日も、
「コングラチュレーション!」
彼らと握手をし、F4から降りる手助けをしたあと、
実直なレジー・テイラー軍曹が早速、機体のチェックにかかっていたところ、
リッチー大尉「レジー来いよ、さあ、これからお祝いだ」。
のち、レジー・テイラー軍曹の誕生日に、
いつも乗機を最高のコンディションに整備してくれていたことに感謝し、
リッチー大尉、デブルーブ大尉から銀のブレスレットが贈られた。
ブレスレットに刻まれたメッセージは「エースたちのクルーチーフ、レジーへ」。 日本本土空襲に参加した、アメリカ軍第871爆撃飛行隊のB29「ドラゴン・レディ」号。
その日は名古屋空襲のため、500ポンド汎用爆弾を搭載し、
航空団司令の大佐も同乗していた。
クルー全員が搭乗を終わり、エンジン始動に備えていたとき、
機内で右ガンナーが手探りで爆弾倉の内部照明スイッチを入れようとしたが、
どうしたことか、内部照明スイッチに安全ワイヤがかけられており、スイッチが入らない。
右ガンナーはかねて用意のペンチで安全ワイヤを切り、スイッチを入れた。
だが「ドラゴン・レディ」の爆弾倉内部照明スイッチは改造により位置変更されており、
整備員もうっかり、クルーに伝えるのを忘れていた、
右ガンナーが入れたスイッチは、緊急用の爆弾一斉投下スイッチだったのである。
ごろごろと駐機場に落ちた爆弾を見て、クルーは一斉に逃げ出したが、
もし、駐機場で機体の外に立っている兵器係の地上クルーが、
安全ワイヤを引いて爆弾の安全装置を解除したあとだったら・・・と、いうところ、
最も冷静だったのは航空団司令の大佐だった。
すぐにクルー、整備員、兵器係を集めて説明を求め、納得すると爆弾の積み直しを命令し、
「ドラゴン・レディ」は何事もなかったかのように出撃していった・・・。 459 名前:名無し三等兵 :2019/02/13(水) 02:08:41.18 ID:A+AxYAVI
陸上自衛隊朝霞駐屯地内の自衛隊体育学校は12日、
隊員3人に平手打ちの暴行を加えたとして、同学校所属の50代男性1等陸尉を
減給1カ月(30分の1)の懲戒処分を行ったと発表した。
同学校によると、1等陸尉は昨年1月11日、同学校の教室で、
海上自衛隊の20代男性隊員3人に対して、顔を各1回平手打ちした。
同学校は毎年10月から翌3月までの6カ月間、同校で養成する各競技の選手を
選定するため集合訓練を実施。隊員3人は訓練後、それぞれの部隊に帰任している。
事件直後、1等陸尉は自ら暴行行為を上司に報告。
1等陸尉は「3人は訓練に参加していた別の女性隊員に対して
容姿を誹謗(ひぼう)する言動があったので、自分の処分覚悟でやった」と話しているという。
2/13(水) 0:13
埼玉新聞
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190212-00010003-saitama-l11
https://lpt.c.yimg.jp/amd/20190212-00010003-saitama-000-view.jpg 作者を覚えてないが短編小説
ドイツの田舎に黒人の混血と思われる少年が養われていた
なぜそこに居るのか村人は誰も追究しない
そこに米軍がやって来て、少年は黒人兵を父親だと思って隊列について行く
それだけの話 336 名無し三等兵 2019/04/19(金) 10:03:48.70 ID:NIrTkcwm
>>333
唐突に思い出したんだが
陸軍か海軍か忘れたが戦争末期
日本本土の戦闘機隊基地にどこからともなくF6Fが1機現れ
脚を降ろしたと見るやなんと着陸してしまった
拳銃片手にかどうか忘れたが駆け寄って見るとコクピットには日本の飛行服を着た日本人のパイロットが乗っており拿捕機を空輸して来たと言う
しかし当基地には何の連絡も届いていなかった事を話すと青ざめて茫然としたと言う
状況次第では空戦になって撃墜されてたって話 >>839
地域により国人層の呼び方はいろいろ
大和あたりだと”国民”なんて呼んだそうで、初めて知ったときはマジ噴いた >>840
一機とはいえ着陸まで放置て言うのが末期なんだろな 逆に、陸海軍が別々に基地を構えて防備していた島で、何かの手違いで陸軍への通告無しで連絡に飛来した96中攻が陸軍側の邀撃機に撃墜された、なんて例もあるけどな
撃墜した操縦者は墜とした中攻の機種識別も日の丸の確認もしていて、でも通告がなかったからそれを敵の欺瞞と判断して怒り狂って撃墜したそうな…
友軍機撃墜しても連絡を怠った海軍が悪いってことでお咎め無し
ちなみにその時の犠牲者の一人が、真珠湾攻撃時の第一次攻撃隊制空隊隊長だった板谷中佐 ほのぼのとは違う気もするが張鼓峰事件の停戦協定の時の話。
日本側で交渉担当をした長勇(後に沖縄戦の現地軍参謀長)は
交渉前予めニンニクを大量に食べてきて
最初にソ連側の交渉担当と握手するときに
相手がニンニク臭さに顔を背けた瞬間、
かねて言い含めていた新聞記者に写真を撮らせて
「我が方の威光に気圧される敵国軍人」という写真にして日本国内で報道させたそうな。
交渉や世論に影響あったかは不明。
あまり調べても出てこないし自分が見た本も色々真偽を論議される「鉄の暴風」だから
本当かは知らないが一応書いてみた ソ満国境は、戦後中ソ対立で武力衝突が起こるが、ダマンスキー島(中国名:珍宝島)事件があった。
ソ連側のデカマラスキー中尉と、バギナ二等兵が行方不明となり、問題となった。
倉前盛通の「悪の地政学」という本に書いてあって真偽は分からないが、
本当か知らないけど、書いてみた。 横からだが単に小学生レベルの下らない書き込みと思った で、ダマンスキー島事件のあと、結局、島はどうなったの?だが、
結果的には今に至るまで中国が解放軍を駐留させ実効支配、ソ連軍はダマンスキー島事件のあと撤収。
中ソ双方で何度となく領有権に関する会談が行われてきたのだが、
「現状復帰する」までは双方、合意に達していても「その『現状』とはいつを指しての『現状』だ?」
ソ連側「ダマンスキー島事件以前、ソ連軍が駐留していたときだ」
中国側「いや、ダマンスキー島事件以後、解放軍が駐留している『いま』のことだ」
議論は平行線を通り越して屁理屈問答の域に達するうち、ソ連は崩壊、
ロシア政府はソ連崩壊直後の極東政策弱体化の中で、事実上、ダマンスキー島を放棄せざるを得なくなり、
近年に至るまで、ダマンスキー島の現状には口を閉ざしていた。
ほのぼの・・・ってのは当たらないと思うけど、
中国側は「珍宝島」の領有を示す記念碑を建立、渡船を運航させてまで観光客向けにも上陸を許している一方、
ロシア側は「ダマンスキー島を見よ、失われた国土は戻らないのだ」と、
ソ連時代以降、閉ざしていた口を開き、国土防衛、領土保全キャンペーンのネタにしている。 国境ネタ、しかも昔の小ネタだがひとつ。
ナイアガラの滝はアメリカ領、カナダ領の双方にまたがって位置しており、
双方を結ぶレインボーブリッジには双方国境警備隊の検問所があるが、
観光客ならパスポートを提示すれば、滝を双方から見るための1日有効のスタンプをくれる・・・けれど、
首から下げるパスポートポーチにパスポートを入れていたおれ、
取り出すのに時間がかかり、シャツのボタンゆるめてえっちらおっちらやってると、
出入国審査官のおばさん「どうしたのあなた?」
おれ「はー、やっと出せた・・・これもね、日本人方式の盗難防止スタイルなんだ」
審査官のおばさん「アーッハッハッ・・・あー、面白かったわよ、でもね、ジャパニーズ、パスポート盗まれないって大事よね」
パスポートに押してもらったアメリカ側スタンプの下には、
”two days”ご褒美よ、って感じで、おばさんがボールペンで書き添えてくれてたんだが、
それでもここは国境だ、と思ったのは、
おばさんがパスポートを返してくれるカウンターの内側、おばさんが手に取れるところにあるガンラックに、
弾倉がついたM16とショットガンが立てかけてあったことだった・・・。 アメリカとカナダの国境って、意外に警備が厳重だよね メキシコとの国境に比べればまだほのぼのなんだろうが日本人から見るとね 中国の某地方空港。
国際線ターミナルからは日本はじめ世界各地に国際便が就航しており、
のみならず、貨物便の発着も絶えない中、
国際線ターミナルのいちばん端から、平壌直行の高麗航空が出ており、
ボーイングやエアバスが翼を並べる中、高麗航空のイリューシンはいかにもちっぽけに見えた。
高麗航空にあてがわれた搭乗ゲート前には、他のエアラインのようなチェックイン機がなく、
何やら屋台のようなチェックインカウンターがあったのだが、
開店休業というか、どうせ誰も乗らないだろ、とばかり、係員がおらず、
ボーディングゲートもつなげないイリューシンのタラップの下には、
自動小銃を背負った、武装警察か解放軍かは遠目でわからないが、中国側の兵士が直立不動で警戒に当たっていた。
中国の空港で、自動小銃を持った兵士を見ることはまず、ない。
あっても空港警備の武装警察が、フタつきホルスターに入った自動拳銃を下げているぐらいだ、
まして国際線航空機の搭乗口に、威嚇するように立っていることはない。
これは中国側の、北朝鮮に対する本音の現れなのか?と、思うのは、おれの考えすぎなんだろうか・・・。 ずいぶん前に書いたネタだが>>852の続き。
カナダ領に入ったおれ、うろうろしていたんだが、
滝から少し離れたところは文字通り田舎町、目に入ったのは小さな警察署。
受付には制服を着てないおじさんがおり、
受付の奥にはデスクの前で、事務椅子にもたれて大いびきかいて寝てるおまわりさんが見えた。
おれ「日本から来た観光客なんだ、カナダの警察官にぜひ、お話をお伺いしたいんだが」
おじさん「ちょっと待ってくれ!」
出てきたのはくだんの、大いびきかいて寝てたおまわりさん。
「サージャント・xxだ、どんなことを訊きたいんだい?さあ、オフィスにどうぞ」
ヒマ・・・いや、サービス精神旺盛なおまわりさん、
「大変な仕事なんだけど、治安の維持って大事なことだからね、日本でもそうじゃないかい?」
「おれのバッジの下の記章を見てくれ、シャープシューターといってね、拳銃射撃のエキスパートさ」
「あ、カメラ持ってるのか、せっかく来たんだから一緒に記念写真撮ろうぜ、制帽貸してあげるから。
おーい、〇〇(受付のおじさん)シャッター押してくれないか?」
じゃ、またカナダに来てくれよ、と、微笑むおまわりさんと握手して警察署を出たんだが、
おまわりさんがシャープシューターの腕に物言わせるときが来ないどころか、
居眠りできるぐらいヒマなのは、ある意味いいことなんだよな・・・と、思ったもんだった。 せっかく久しぶりに話題が繋がったので、こちらも関連する話を
>>853
米加国境の大半は緯度で機械的に引いたものなのはご存知の通り
ほとんどは平野の真ん中なのでどこが国境でも構わないのだが、国境が湖とか湾を横切るところで何箇所か「合衆国領だけど地続きじゃなく、カナダ領を通らないと行き来ができない」場所がある
その中で比較的広くてちゃんと人が住んでるのが、ワシントン州のポイントロバーツ、バンクーバーの南郊外から海に突き出た半島で、人口千人ほどの小さな街が一つそのまま含まれている
この飛地には小学校しかなく病院も産業もないので、住民はアメリカの行政サービスを受けるためには1時間弱かけてアメリカ領に行く必要があるが、前出の通り国境通過が意外に面倒で時間がかかる
特に911以降はスクールバスが遅延する等の影響が出ていた
なお、国境を決めた時カナダ(当時はイギリス領)側は飛地ができて不便が生じることを把握しており、ポイントロバーツと他の土地を交換する等の妥協案を提示したものの、アメリカ側が北緯49度線に固執した模様 >>856
自国領内で北朝鮮の民航機が爆破されては国の威信に関わる
どちらかと言えば警戒ではなく保護していると思える 昭和20年8月9日、樺太。
北緯50度線、日ソ国境を突破して侵攻してきたソ連軍の南下ルートは、
国境に通じるただ1本の国道、そして、ほぼそれに沿って走っていた樺太鉄道局線、
半田沢⇔敷香間、国境鉄道線に沿ったものであった。
それがため、国境鉄道線は8月9日以降、悲劇の攻防線と化したのである。
最北の鉄道駅、半田沢付近は同時に、日本軍の防備拠点となっていたが、
なすすべもなく8月11日にはソ連軍に突破され、日本軍にはやや南の古屯駅付近で死守命令が下る。
古屯駅付近の防備ラインを突破されれば、樺太第2の都市、3万人の人口を数える敷香まではさほど遠くはない。
8月14日までは敷香から兵員、弾薬、食料品を満載した軍用列車が昼夜を問わず運転され、
古屯駅付近を死守する前線部隊への補給が続けられていた。
古屯駅から引き返す軍用列車には、敷香を目指す避難民が満載されており、
8月14日午前8時、最後の避難列車が古屯駅を発車。
だが、最終の避難列車は敷香まで4分の1ほど進んだ千輪街駅付近で脱線、最後尾の貨車3両が川に落ちた。
避難民より先行して敷香方面に南下していた工兵隊が、ソ連に利用されるのを防ぐため、鉄道橋を爆破していたのである。
もはや避難民には、徒歩で南下するより他に方法は残されていなかった。 8月15日の終戦後もソ連軍との戦闘は続き、かろうじて敷香にたどり着いた避難民は1万5千人。
樺太鉄道局は8月15日朝から、使えるだけの車両をすべて動かし、敷香からの避難列車を運転開始する。
8月15日の時点では運よく樺太南端、大泊に着くことができれば、北海道へ避難できる可能性も残されていたのだ。
敷香まであとわずかという、上敷香駅付近にまでソ連軍が迫った8月19日、
1両のC56型蒸気機関車に、客車を1両だけ連結した列車が仕立てられた。
駐屯軍司令官と参謀を乗せ、機関車の前端に白旗を取り付けた休戦交渉の軍使列車で、
これが樺太鉄道局国境鉄道線、最後の北行き列車だったのだ。
だが休戦交渉は実らず、樺太鉄道局は8月21日、
敷香発の東海岸線南行き、大泊を目指して最後の避難列車を発車させる。
蒸気機関車2両をつなぎ、ありったけの客車と貨車25両を連結、
乗車は婦女子、または15歳以下の男子に限られていた・・・が、
8月21日の時点ではすでに敷香より南までソ連軍が達しており、
8月23日午後10時には最後の稚内行き避難船「宗谷丸」が大泊を出港。
詳細は今に至るも判然としないが、最後の避難列車の乗客が北海道に避難できた確率は極めて低い。 10年前に亡くなった親戚が、シベリアに抑留されたので、こういう話を聞いただけで、
ソ連の悪行に頭にくる。 戦時中の中国戦線の話。
ある夜に、敵を威嚇するため(?)軍歌で景気づけするよう指令が来たので
各部隊が軍歌を歌っているところ、一つだけ岐阜県出身の人間が中心の部隊は
集団で「郡上おどり」をやって、中国がいきなり郡上八幡に変わったかのような光景に
他の部隊も見とれるほどだったが、翌日上から叱られてしまい、二度とやることはなかった。
その部隊は後日戦局が激しくなると南方に送られてしまい、ほとんど戦死してしまったそうだ。 太平洋戦争前の海軍の練習航海の話
ネタ元は登場人物の同期生の吉田俊雄の「指揮官たちの太平洋戦争」と思う。
ttp://blog.livedoor.jp/yamato26840/archives/19493290.html
後日談は悲しくなるけど ほのぼのとしてねぇ後日談(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`) それではほのぼのした話を一つ。学徒動員で学校軍服を作ったり学徒は工場や郵便局や銀行などに動員されていった。
学徒たちの間では人気の職場というものがあり……
・火薬工場→火薬原料を扱った後砂糖の配給がある!
・たばこ工場→週ごとにタバコの配給。お父さんに喜ばれる(一部は闇市とか物々交換にいかされましたとさ)
・印刷工場→千代紙など綺麗な紙がもらえることがある
といった具合に動員先での役得があったため人気の職場に行けた人は羨ましがれ
それぞれがもらったものを交換し合ったりもしていた
このほか手塚治虫ではないがこっそり漫画を描いてトイレの壁に貼り付け連載していた女学生や
美少女だが病弱で作業が遅れがちなので工員にいじめられた女学生を事務室に移動させた少尉さんなと
職場ごとに色々な物語があったようで ほのぼのという話か分からないが一つ
戦時中に井伏鱒二ら作家たちを南方に徴用した時の話。
結成式で輸送指揮官が「貴様らの命は俺があずかった。ぐずぐず言うものは、ぶった斬るぞ」と、
いきなり言ってみんな動揺して、卒倒した人も現れた。
その時、「ぶった斬ってみろ!」と海音寺潮五郎が持ってきていた先祖代々の同田貫宗広の全長四尺でドンとついて言いかえし、
その指揮官は、「あの中には非国民がいるから危ない」と言って輸送中、船室から出て来なかったとのこと。 >>876
少尉が女学生にあんな事やこんな事を(ry >>877
自分の思い通りにならないヤツは「非国民」認定
実にほのぼのとした話しだ >>876
すみちゃん(この世界の片隅に)の言うハンサムな将校さんを思い出す。
半袖開襟シャツに白手袋で軍刀吊ってたんだろうな。 すみちゃんの動員先がわからないがすみちゃんの症状を見てると将校さんは助かった可能性の方が高そう
女学生や勤労奉仕のとこに配属された将校さんは親切なのが多かったのか
将校さんの方が配置転換などになる時に持ち寄りの食材とつて(※)を使って送別会を開いたりしていた様子
※女学校の生徒さんとなるといいところの娘さんが多いのでクラスに一人くらい料亭や旅館の娘さん
あるいは親戚にそういうとこがあるひとがいたんだそうな 原作だとすみちゃんに死の斑点出てていやな雲行き暗示してたけど
映画はそうでもなかったんだっけ いや映画でも斑点でて「うち、なおるんかねぇ」だったけど
・炸裂時屋内にいておそらく1キロ以遠(火傷や外傷がなさそう)
・お母さんを探しているがおそらく救護所や家の方を探していたっぽい
・お母さんはお祭りの準備のためにいた市内(たぶん爆心地800圏内)を探したのがお父ちゃん
・療養してる場所が比較的被害が少ない江波
・発症が10月後半から11月くらいと遅い
・髪の毛は抜けてない
・呉に畑もちの姉(すずさん)がいて野菜とか届けてくれそう
これなら助かるんじゃないかなって楽観的な希望 元陸軍兵飯田さん(98)の沖縄スカッと体験
飯田さんは沖縄戦最後の激戦地・摩文仁村(現在の糸満市)に移動。
ここで「佐々木」という海軍の軍曹を殺害した。いったいどういうことか。
45年6月ごろ、飯田さんは、一緒に逃げてきた日本海軍兵や周辺住民と過ごすなど交流があった。
「食糧が少なく、餓死した人も多い。でも、住民とは仲よくやっていました。部隊には軍から鯨の缶詰の
配給がありましたから、それを住民にも配った。私たちは住民からサツマイモなどをもらって。
イモの葉っぱは常食でしたよ」
しかし海軍の軍曹・佐々木は、住民を殺害したり、女性を強姦したり、食料を強奪していた。近くで水が
飲めた唯一の井戸を独占している、という話も住民から聞いた。
「住民が泣きついてきたんです。佐々木は自分だけ生き延びようとしていた。反感を持たれていました」
ウワサだけでなく、飯田さん自身も佐々木の蛮行を目撃する。もう限界だと思った。
「見て見ぬふりをしている人もいた。佐々木の命令で同じようにしている人もいた。あまりにもひどい。
日本から兵隊が行ったからこそ、沖縄の島民は苦労したというのに」
そのため、佐々木を殺害することを思い立つ。
「佐々木さえいなければ、なんとかしのげて、水も飲めるのに」
飯田さんは、仲間と一緒に殺害計画を立てた。井戸で住民に嫌がらせをしていた佐々木に近づき、
後頭部に銃を突きつけ、引き金を引いたのだ。
この佐々木殺害の件について、飯田さんは2年前から証言するようになった。 882に絡んで、勤労奉仕の女学生さん指導担当の少尉とか軍曹となると兵隊相手にオイコラ貴様とやるわけにもいかず、
かといって資材が届かないとか停電などの関係で作業ができないときとかは弛まないように週1日は授業の日とか設定していく生活指導もなかなか大変な業務だったとの事
かといって、宿舎や工場の食堂で授業なんてすぐにできないものだから、重宝されたのが「和裁」の授業という建前
千人針はまっすぐ縫うだけだけども、作業着などの繕い、ほつれとりなどはいくらでもあるので、和裁の先生に来てもらって、自分の作業服やハチマキの手直しから始まり、
名前だけでは判らなくなるからと、虎の刺繍(千人針)や実家の家紋、自分の苗字にちなんだイラストを縫い込むのを進めるというか見逃すことも多々あったようだ
なお、イケメン少尉さんは女学生の餌食になって、腕章とかハチマキとか戦闘帽にお花やのらくろの刺繍、パッチワークをつけられ、工場長に毎週いじられて大変だったとの事 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています