[19世紀後半幕末総合]南北・普仏・西南・日清戦争07 [無断転載禁止]©2ch.net

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2016/09/06(火) 15:56:37.13ID:Y+NNH6SN
19世紀後半総合スレです。

日本史で見ればペリー来航からの幕末動乱期から
幕府倒壊・戊辰戦争、明治維新・明治新政府、西南戦争、日清戦争。

世界史で見ればパックス・ブリタニカ、
インド大反乱・南北戦争・普仏戦争・ドイツ統一、イタリア統一

兵器史で見れば雷管発明、リボルバー発明、ミニエー弾、ガトリング銃、
アームストロング砲、ボルトアクション小銃完成、モニター艦、装甲艦(甲鉄艦)
四斤山砲(フランス製前装ライフル式の青銅製山砲)など

戦列歩兵・散兵戦などの歩兵戦術から、帆船や蒸気船などまで
19世紀後半の時代で軍事に関係することなら陸海軍問わず、
東洋・西洋の違いも問いません。

上記すべての分野に全部精通している人なんていません。
特定分野に詳しい神が降臨したら歓迎しましょう。
その人が何か別の分野で間違っていても、叩きすぎないようにしましょう。

このスレは、初心者には優しく、敷居は低く、荒らしはスルーしながら、過疎落ちしない程度にマータリ進行です。

20世紀は別スレで。
19世紀後半以前については、近世スレまたは古代・中世スレへ

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[19世紀後半幕末総合]南北・普仏・西南・日清戦争06
http://echo.2ch.net/test/read.cgi/army/1376388340/
2016/09/06(火) 19:33:14.82ID:Q38gTXWy
>>1
18世紀終盤〜20世紀初頭までの歩兵戦闘の変化って以下の認識でいいのかね?
フランス革命前
連隊〜それ以上の単位での巨大な戦列歩兵の横隊を組む
横隊が発揮できる火力で戦闘を決する
フランス革命・ナポレオン戦争
大隊単位で歩兵部隊を運用することが多くなる(ワーテルローの師団縦隊のように例外あり)
戦列歩兵大隊を支援する選抜歩兵や大隊そのものが散兵となれる軽歩兵大隊が編成され軍の編成に大々的に散兵が取り入れられる
横隊による歩兵火力よりも縦隊や混合隊形による突撃と白兵戦で敵戦列を崩すことを重視する??
1860年代くらいまで?
ナポレオン戦争時代に確立した戦術を武器の進歩に合わせてアップデート
1870年代〜日露戦争
ライフルの普及により敵の戦列に突撃することが不可能になった為、
白兵戦ではなく散兵+戦列歩兵による遠距離(一マイル以上)への火力投射で戦闘を決する(旧軍の用語でいうと火戦主義)
ボーア戦争
ボーア人ゲリラに手を焼いたイギリス軍によってすべての兵士を散兵とするボーア戦術が生み出される
日露戦争後
機関銃の普及や火砲の進歩に対応するためボーア戦術が各国で普及しはじめる
全歩兵の散兵化により歩兵の火力と射程が大幅に劣化し、更に塹壕等の野戦築城には火戦は全く通用しないことから
再び白兵戦を重視する白兵主義に傾きはじめる
3名無し三等兵
垢版 |
2016/09/06(火) 21:39:26.86ID:1nJQE4SU
>>1

19世紀後半。
この頃は、今や事実上、日本語版が絶望となった
「ヴィクトリア」というゲームでは、こんなに進歩したのか、と驚愕の時代でした。

マスケット銃が戊辰戦争では主力だったのに、それから40年も経たない
日露戦争では、現代にまで通じるボルトアクション式小銃が登場するという。

本当に信じられない時代です。
2016/09/07(水) 19:59:34.99ID:Hj0HGvIK
それにしても、この時代は人気が無いのだろうか。

ネットの歴史小説とか見ても、幕末ものが少しあるくらいで、それ以外は見た覚えがない。

軍事的には、いろいろ興味深い時代だと思うのだが。
2016/09/07(水) 20:27:56.56ID:UfUIqIA6
進歩があっちゅうまだから逆にパブリックなイメージが定着してないとも言えるからなあ
書く方はもちろん読む方も難しいんちゃう?
2016/09/07(水) 21:28:37.67ID:PTiQ2jko
>>5
確かに否定できないけど、逆におもしろいという見方もできる。

戊辰戦争等、抜刀切込みを行う部隊がいるか、と思えば、旧式の火縄銃部隊もいるし、
逆に最新式の後装式ライフルや、ガトリング式の機関銃を装備した最精鋭部隊がいたりもする。

こんなふうに、渾然とした戦いを魅力的に描けるのって、この時代しかないと思うのだが。
2016/09/07(水) 21:31:57.94ID:d91BokX7
>>3
paradoxのVictoriaか〜
今やりこんでるゲームだ
ボルトアクションと毒ガスの技術が開発されてからは大量の死傷者がでてそれに伴い労働人口も減少するえぐいゲーム
2016/09/08(木) 19:53:52.49ID:istLbjBu
射撃単位が大隊から中隊になったのっていつなんじゃろ?
色々本読むと普仏戦争の頃は普通に大隊単位で戦闘してたのに
日露戦争の頃の日本軍は中隊単位で戦闘してたからその間に大きな変革があっただろうけど
具体的にいつどういう変革があったのか今一つよくわからん
2016/09/09(金) 15:32:18.60ID:oHMws3DM
>>2
幾つか疑問点が

フランス革命前でも戦列歩兵の時代なら、横隊を含む各種隊形は大隊単位が基本かと
また、戦列歩兵大隊内に軽歩兵戦術担当の中隊を編成するのは18世紀中頃には始まっていました

イギリス軍
軽中隊、各大隊に1個中隊
フランス軍
猟兵中隊、各戦列歩兵連隊の第2大隊に擲弾兵中隊の代わりに1個中隊

戦列歩兵大隊から軽中隊を摘出して大隊規模の軽歩兵として運用する事も有りました

大隊や連隊規模の軽兵種も各国で編成されました
プロシアのイエーガー、オーストリアのパンドゥール、イギリスの軽歩兵やレンジャー、フランスの Arquebusiers de Grassin を初めとするサックス元帥の創設した各種軽兵種
等々

ナポレオン時代の様に横隊(縦隊も)前方に散兵として展開させる事も有りましたが、その際は forlorn hope(決死隊)と呼ばれる事が多かった様です
何れの国も、軽兵種の分散使用(フレンチ・インディアン戦争での両軍等)から集中使用(フォントノア会戦でのフランス軍等)までバラエティーに富んだ運用をしていました
てか、試行錯誤の時代?
2016/09/09(金) 19:47:00.62ID:QnlpvRhx
>>9
軍事関係の事柄は、単純に直線的には進まないし、
結構、迷走したり、各国軍によって基本的な考えが違ったり、して単純には言えない。

今でも試行錯誤が続いていると言っても過言ではないくらい。

だから、9の言っているのも分かるし、2の言っているのも分かる。
玉虫色の回答と言えば、回答だが、それが軍事関係の疑問に対する回答と思えてきた。
(さすがに、嘘だろうと私には思える回答も、多々見るが、それなりに根拠は出すからな。
根拠もなしに血がつと言われては、私もドン引くが)
11名無し三等兵
垢版 |
2016/09/10(土) 20:46:28.35ID:xB6KgtjZ
スナイドル銃を実戦でた〜くさん使用
してるのは日本。大英帝国で実戦で使用
されてるのかは不明
2016/09/18(日) 22:53:23.21ID:i4ttn23V
>>8
中隊戦闘に完全に移行したのって日露戦争後じゃないかね?
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/844231

エンゲルスが1860年代にイギリス軍の郷土軍向けに中隊教練の効能について書いた記事を書いてるし
歩兵中隊が独立して運動することはもっと前からやってたと思うけど
13名無し三等兵
垢版 |
2016/09/23(金) 19:56:50.24ID:oWn/xwqx
会津・庄内は売国奴


http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/images/2016/09/21/M16092112178/efc636fa3839ddca1fa39fdeffab7c06.jpg

 戊辰戦争さなかの1868年(明治元年)、新政府軍(官軍)と戦っていた会津・庄内両藩が、プロイセン(ドイツ)から
資金を借りる担保として「蝦夷地(えぞち)の領地を99年間貸与すると申し出た」と記した駐日公使発本国向けの外交書簡を、
五百旗頭(いおきべ)薫東大教授らの研究チームがベルリンで発見した。内容通りなら、ドイツの蝦夷地租借構想が水面下で
具体化していたことになる。東大史料編纂(へんさん)所の箱石大(はこいしひろし)准教授は「戊辰戦争が長引いていれば
実現していた可能性がある」とみる。

 これまでは、日大のアンドレアス・バウマン教授が1995年にドイツ連邦軍事文書館で見つけた文書から、1868年
7月に両藩から蝦夷地の土地売却の打診を受けたものの、10月に本国のビスマルク宰相が却下し、交渉は立ち消えになったと
みられていた。

 その後、ボン大学の研究者と箱石准教授が同文書館で、宰相が3週間後に一転、交渉を認可していた文書を見つけ、本国側では
ゴーサインが出ていたことが明らかになっていた。

 今回見つかった外交書簡を書いたのは、横浜にいた駐日プロイセン公使マックス・フォン・ブラント。貸与期間を具体的に盛り
込むなど、両藩との間で交渉妥結の下地が整っていたことがうかがえる。

 とはいえ、ブラントが横浜から本国の宰相に新発見書簡を発信した日付は68年11月12日で、すでに会津藩の降伏から
6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており、現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた。
14名無し三等兵
垢版 |
2016/09/23(金) 19:57:20.20ID:oWn/xwqx
 書簡の保管先はベルリンの連邦文書館。五百旗頭教授らが2013年に着手したドイツの史料発掘プロジェクトの中で、国立
歴史民俗博物館(千葉県)の福岡万里子准教授が読み解いた。

 それによると「シュネル(当時東北にいたプロイセン人の仲介役)が、借り入れに対して蝦夷地の領地を99年間、担保として
与えるとする会津・庄内領主の(シュネルに対する)全権委任状を持ってきた。100平方ドイツマイル(5625平方キロ)の
土地を得るのに30万メキシコドルで十分だ」などと書かれているという。

 幕末期の会津藩の領地は現在のオホーツク、根室管内の一部、庄内藩は留萌、上川管内の一部など。書簡には「会津・庄内藩の
蝦夷地の領地に良港はないが、ひとたび足がかりをつかめば他の地の購入が容易になるだろう」ともつづられており、海軍拠点
確保に向けた意図が読み取れる。

 当時のプロイセンは2年前の1866年に対オーストリア戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となっており、ドイツ帝国の
形成に向かう軍備拡張期だった。(報道センター編集委員 小坂洋右)

09/21 17:15 更新
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0317478.html
2016/09/23(金) 20:28:59.25ID:359ok8jn
>>14
そんなことを言い出したら、彦島を長州は売り渡そうとしていたじゃないか。
賠償金を幕府が払わないなら、彦島を長州は渡しますって。
伊藤博文や井上馨の証言がある以上、それも指摘しないと公正じゃない。
もちろん、伊藤や井上は大嘘つきだから信用できない、と13,14は怒号しておしまいだろうが
2016/09/23(金) 21:46:43.48ID:rcgCcn6B
北海道なんざ日本じゃねえからどうでもよい
アイヌも同化せず幸せ
2016/09/23(金) 21:50:24.75ID:+UmNR2la
北海道を租借させてもWW1で取り返せるジャマイカ
2016/09/23(金) 22:17:49.62ID:O2uPJqpP
オーストリア=ハンガリーの制服ってものすごい種類あるよな
白の上着+赤ズボンで皇帝専用の礼装?だっけ?フランツヨーゼフ帝の肖像画でよく見るけど
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