写真左手には「作戦室 昭和19 年12 月竣工 中島分隊」と記
載された額がある。中島分隊とは,館山市にあった全国唯一の

へいきせいびようせいがっこう
器整備養成学校「洲
すのさき
ノ埼海軍航空隊」内に設置された分隊。
上陸に対しては砲台などである程度は食い止め,
その後,力を温存しておいた内陸に配置した兵団
で敵を迎え撃つ)に変更しますが,沖縄戦敗戦後,
再び大本営は急速に特攻,水際作戦へと傾きます。
 房総・三浦半島を管轄する第一総
そうぐん
軍は,このよ
うな大本営の思想の影響を強く受け,6 月中旬に綱
領をまとめ,7 月17 日に「水際に於いては徹底的
攻撃作戦を実行し,総軍司令官以下は水際で戦死
するという壮
そうれつ
烈な」作戦(第一総軍参謀不
ふわひろし
破博大
佐の戦後回想による)を各軍に下
かたつ
達します。また,
この「水際」とは波打ち際も含むとし,波打ち際ぎりぎりに陣地を構築するよう命じました。
・」