わかりやすく解説するなら、
赤城加賀が三段空母の頃と第二次改装の頃と昭和16年以降と3つに分けられる。

1930年あたりまでは空母が戦艦部隊本体と一緒に行動し、敵戦闘機、攻撃機、観測機の排除と敵戦艦への攻撃
艦攻が魚雷積んでの行動半径が150kmくらいしかなかった頃なので戦艦部隊と離れられなかった。

1930〜33年にはアメリカ、イギリス、日本と時間の差はあれど空母の敵は空母と認識し始め空母撃滅戦という考えになっていく。
1932年の演習ではレキシントン・サラトガが真珠湾奇襲を成功させ大打撃を与えたと判定されている。
アメリカ・日本が敵空母攻撃の為に急降下爆撃機の開発を始めるのもこの頃。
1933年の日本の編成は戦艦主力の第一艦隊に第一航空戦隊、巡洋艦主力の第二艦隊に第二航空戦隊

1939年頃より空母の集中運用が米英で始まり、実行されていく。
日本は1940年までは、敵空母を攻撃する機動航空部隊、敵戦艦を攻撃する決戦夜戦部隊、
主力戦艦部隊の直衛の直衛部隊、この3つに空母を分散配備するようになっていた。
赤城加賀は決戦夜戦部隊の配備予定
1941年に第一航空艦隊が編成され、機動航空部隊と決戦夜戦部隊の空母が集約される。
この頃になると日米とも空母機で戦艦は撃沈できると認識しており、
空母決戦で勝利し決戦水域の制空権を得られなければ、戦艦同士の決戦を放棄する方針になっている。