>>786
逆に占領下の日本では進駐軍相手にせっせと女と酒を提供し過ぎたせいで、朝鮮戦争の勃発する進駐5年目の1950年頃には米兵らもすっかり
骨抜きになり戦闘力ガタ落ちしていたという話も。
朝鮮戦争と米兵で言えば、国内の最前線基地と化した福岡の板付基地周辺の歓楽街が有名だけど、北海道の千歳周辺も負けず劣らずだった
事はあまり知られていません。

元は田舎だった千歳には終戦後空港周辺に米第2空挺師団や第7歩兵師団の一部が進駐して基地の街と化しつつありましたが、朝鮮戦争が
はじまるとオクラホマの州兵師団が丸ごと移転。

http://www.sapporoyu.org/modules/sy_html/index.php?f=chosa-uzaki
(前略)
・オクラホマ景気
谷上さんによると「自分は勇払郡植内村 字美々という田舎から千歳駅の官舎に引っ越してきたけれど(1952年)、千歳駅周辺も店はポツポツとあるぐらい」
で、賑やかなマチにやってきた感じはなかった。
その千歳の街の風景をガラリと変えていくのが、千歳進駐史上最大規模のオクラホマ第四五州兵師団(以下、オクラホマ師団)である。
 
オクラホマ師団の先発部隊は1951年4月小樽に到着し、列車とトラックを乗り継ぎ千歳に進駐した。
人員数ははっきりしないが、12,000人から20,000人といわれる(6)。
大量進駐で基地内の施設が追いつかず、ママチ川奥に大型テントを張って野営したほか、千歳市内の第1・2・3基地を使用して駐屯し、付近の
山野で猛練習を重ねる。 未訓練兵の部隊であった師団の新兵訓練は州内で15週、北海道に来てから32週におよんだといわれる(7)。
厳しい訓練と殺伐としたテント生活、前途には朝鮮戦争が待ち構え、出動すればもちろん命の行方はしれなかった。
 
「アメリカの田舎の兵隊でね、千歳にきてもやる事ないから飲み屋に行ってバンバンお金を使うんだな。 ドル札が流れるわけですよ。
ウソかホントか知らないけど有名な話でね、清水町の飲み屋街では『ろうそく代わりにドル札を燃やした』って言ってたくらい。
全国からいっぱい人が集まってきた(谷上さん)。」(続く)