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連合軍による(元)蘭印(インドネシア)などへの攻撃に、
オーストラリアの基地が使用される事を遅らせるため、
日本帝国海軍や日本帝国陸軍の航空機が、
1942年2月19日〜1943年11月12日まで計64回にわたり、オーストラリア本土、
地域の主要空域、周辺諸島、沿岸輸送ラインの船舶などを攻撃した。


昭和18年初春から行われたオーストラリアのダーウィンに対する、チモール島からの日本海軍
のキャンペーンでは、ゼロ戦と中攻部隊が健闘しています。
753空(一式陸攻)と202空(ゼロ)のコンビ+陸軍の百式重が参加し、相手は欧州戦線で鳴らした
クライブ・コールドウェル中佐率いる1FW(457sq&457sqRAAFプラス54sqRAF)のスピット5型で、
アゴフィルターつきのやつです。
同年3月から9月までの半年間、戦闘損失はゼロが3機に対して、スピット38機(双方ともすべての
未帰還機の累計)です。これは双方の自軍損害記録によるもので、いわゆる「誇大戦果」ではありません。
日本側の出撃回数は半年間で大小合わせて20回足らずですが、そのうち200キロm内陸部、
USAAFのB-24部隊がいたフェントン飛行場へは6回攻撃をかけています。いずれも高度は7000m以上。
相手のスピットを考えての行動であり、特に他の戦線に比べて陸攻の被害も少なく、豪側からは「爆撃機
の防御砲火も比較的堅固であった」のようなコメントもあります。
追記2006/02/06 一式陸攻は高高度性能に優れていて、ダグラスP-70(A-20ハボックにレーダーを搭載
して夜間戦闘機としたもの)などは上昇性能で及ばなかったといいます。
戦訓による陸攻の自動消火装置も有効に作動した、と記録に述べられています。
(資料出所:「第8章 ダーウィン上空の零戦」、秦郁彦著「過信の結末(下巻)」から、中公文庫#532)