「日本爆撃の際、中島飛行機の工場などの情報はどうして得ていたのですか?
日本兵捕虜を尋問して情報を得ていたのです

第2次世界大戦中、アメリカはアルホルニア州サンフランシスコ市近郊に、日本兵捕虜秘密尋問所を設けていました。
1944年9月、サイパン陥落の2ヵ月後に、合同攻撃目標グループが設置されました。
アメリカ陸軍情報参謀部、陸軍航空隊、海軍、イギリス空軍、戦略情報局(OSS、CIAの前身)、外国経済局、国防調査会議などからなります。
ここに情報を供給した主な機関が、日本兵捕虜秘密尋問所なのです。
まず、捕虜に身上書を書かせて、本人の情報を得ます。
役立ちそうだと見ると、日本兵捕虜秘密尋問所へ送り込んで、詳しく尋問しました。

サイパンで1944年7月に捕虜になった日本兵がいます。
1944年4月21日まで、三菱重工業名古屋発動機製作所にて働いていました。
11月4日から21日にかけて尋問を受けました。
11月23日爆撃を受けました。
元工員の証言は詳細でした。
同じようなことが、日本各地に対して行われました。

合同攻撃目標グループは、単独の組織ではありませんでした。
いろんな部署から情報を持ち寄りました。
オーストラリア駐留の陸軍航空隊の情報部隊では、零戦の製造番号の秘密を解き明かしました。
最初の1桁が、嘘の数字だったのです。
製造番号の秘密が分かると、生産量も推測できました。

そんな中でも、日本兵捕虜秘密尋問所からの情報は秀逸でした。
工場や皇居や横須賀の猿島要塞の見取り図が詳しく描かれていました。
日本人関係者に確認すると、間違いの無い、正確なものだそうです。

日本海軍の情報機関の大佐が捕虜となり、在中国の、日本陸海軍の情報機関や、
ドイツやイタリアの情報機関のことまでしゃべってしまったそうです。