当時の日本のプロペラ屋さんは、
ピッチ可変角30度が一杯一杯のところ、どうやってフルフェザリングにできるか悪戦苦闘で
手一杯、という事実。

まぁ1941年に中島を退社し、ロケットに転向した、当時の日本の第一級の空力屋・糸川センセを
リクルートして、プロペラブレードの最適空力設計に励む体制が出来ていれば、
プロペラ効率改善による性能向上が期待できただろうね。
層流翼である中島Kシリーズ翼型を応用して、プロペラブレードを量産できたら、もしかして?

ハイオクガソリンの量産に苦しんだ日本だったら、92〜95オクタン級のエンジンで手一杯なんだし、
そういう意味では、日本向きの技術改良のベクトルだったわけだけど。
昭和14年に、アメリカからハイオクガソリン技術が禁輸されて、ドイツ・イタリアだって、87オクタンがメインだった中で、
それでも100オクタン前提の誉なんぞで勝負を賭けるからこうなった、とでも言うべきか…

雷電だって、火星1x+推力式単排気管程度のエンジンで、なんとかなった可能性も秘めるワケだしね。