戊辰戦争・西南戦争の軍事的考察
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西郷どん、なんで死んでしまうん?
第二次長州征伐みたく守りきって新政府の武威を落とした方が良かったんちゃうん? 「持久して息切れさせ、薩摩や安芸、土佐といった諸藩による停戦仲介を待つ」という明確な戦略があった長州に比べて、西郷軍はそもそも目標がフワフワだし… 長州藩だって薩摩藩頼みの他力本願だよ
薩摩藩が処分案のいったん受け入れを薦めたのに対して拒絶したのは
内戦収拾のために諸隊幹部を政府に加えたから抗戦以外の道がなくなったから
西南戦争の薩軍は、他県士族をアテにしてない点では自力本願とも言える
結果から逆算して戦略のあるなしを判定するのは滑稽 >>1
山県有朋が恐れていた3策のうち1策が鹿児島割拠で、
鎮定に手間取るうちに士族の反乱を誘発しうるのでそういう方法もあり得る
もっとも西郷は陸軍大将として全国の鎮台兵を率いる権限があると考えてるから
割拠策を取る必要性自体感じてないのだろう 本当に薩摩軍が大挙して東京まで攻め上る気やったん?
いくらなんでも無謀という意見は無かったのであろうか
物資の補給・兵站の問題、それに天皇の密勅のようなものもない
桐野らだって、佐賀の乱などの武装蜂起の失敗、
同じく憤激して大挙した禁門の変での長州の失敗、
戊辰戦争(東北戦争)で補給で苦しんだ経験・・教訓となる事例はいくつもあるのに 西郷は過去に出兵上洛を何度も経験している
斉彬の出兵計画がそうだし、文久の久光の率兵上洛もそう
慶応年間の藩兵上洛もそう、明治3年の藩兵上洛もしかり
明治10年の上洛もその延長上で考えていたのだろう
何度も成功体験があるから今度もうまくいくと考えるのは人間のさが
鎮台の本格的抵抗を受けるとは考えていない
「2月下旬か3月上旬には大坂表に着く」と大山綱良に語っているから確か 西郷軍は小倉・長崎を早く抑えないと立ち枯れる。
熊本鎮台の対応を読み違えて引っかかった感がある。
26日には政府海軍が長崎に入って迎陽丸が拿捕されてる。 いや、やっぱり戦線縮小して薩摩・大隅の死守でしょ? そしたら船がないから封鎖されるな
三州蟠踞よりは高知に渡って大坂を衝くほうがいい 西南戦争の挙兵じたいは明治9年12月上旬に桐野が別府・逸見の論に与した時点で
西郷・村田らの参加の如何を問わずほぼ決していた
士族が鹿児島城下に銃を持って詰めかけ始めたのもその頃からの現象
戊辰戦争には桂太郎も参加していたのだった゜゜゜゜゜-y(^。^)。o0○プハー
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『宰相桂太郎』(光人社NS文庫渡部)
■1848-1913。長州藩百石取家に生まれた。日露戦争時の首相。首相在籍2886日最も長い。
■鳥羽伏見の戦いではライフル銃隊中隊長。
幕府軍の銃は射程100m、長州藩は500mで勝負にならず。
■戊辰戦争は全体で9000人ほど人命損失があったがその7割以上が東北での戦い。
桂はこれに参加。
■維新後は軍政面で活躍。徴兵制明治6年からだが当時は金を払えば免除できる
など不備が多かったが、これを改革。 幕府軍と言っても主力の幕府歩兵の銃は京方と同等以上だがな。
戊辰戦争では庄内藩にフルボッコにされてたのは内緒だよ 北越戦争でガトリング砲がどう運用されたかわかる資料ってありますか?
なんか「新政府軍を苦しめた」とかのふんわりした記述ばっかりで具体的にどの戦いでどう使われたかってのがよくわからない・・・ >>14
実際は稼働率が悪く主に敵に殴りつけて使用した。 ./'^^^ ^-.
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「 ▲ ▲ 〈
.ヽ...__ ▲ l <東北地方のゆるキャラ
.l ./ セシウムです。
./゜ l よろしくね。
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ヽ____ __.。.l゜
怪しいお米
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./ /_--' ___.ノ / ー' ___ノ / ノ /__,l ̄i.
i___7 /____,../ /____/ /___,、__i さん 川路を法に照らし合わせて訴えれば済む話を徒党を組んで強訴しようってんだから薩摩士族は救いのない阿呆
薩英戦争も知らん若造が騒ぎ立てて根拠もなく絶対勝つといい、治めるべき年長者の篠原がそれを煽る最悪の構図 会津藩の降伏式に桐野を行かせたのが間違いだったのかも
桐野はあまりにも感情移入して、武士の生きる道は格の如くなりと
思い込んでしまったのでなかろうか フランス?軍事顧問団が育てた、幕府の洋式軍隊って
結局、戦わなかったの? 大鳥圭介の伝習隊とか最初は調子が良かったんだが、
聖地日光の膝下で東北への入り口でもある宇都宮あたりの攻防戦で
戦力消耗してしまい、いったん消耗すると増援は難しいし
あと攻め手の板垣・伊地知もなかなか強くて・・ 加茂の河原に千鳥が騒ぐ
またも血の雨 涙雨
武士という名に生命をかけて
新撰組は今日も行く 幕府の旗本は、家督を息子に譲って、新兵ばかりの貧弱な軍隊だった。
数ほどの活躍ができないのは当たり前。
幕府正規軍よりも新撰組が目立つようではね。 朝鮮・清朝・オスマントルコと明治日本を比べ見るに、Western Inpact前の旧制度軍事組織を一旦完全に解体しないと
(有為の人材を迅速に再雇用するのは全く別問題)国家近代化はどうにもならんね。まあ日本軍はその後のコントロールでしくじったけど。 近いとこではタンザニアもあるか。旧植民地時代の東アフリカ連隊の大隊を引き継いだのがまるで役立たずだったのを、給料上げろ反乱を機に完全解体して人民防衛隊を作って、
同じく東アフリカ連隊の、別な大隊をそのまま引き継いだイディ・アミン政権ウガンダ軍が侵略してきたのを迎撃し、逆にウガンダ完全占領・アミン政権解体まで持ち込んだ。
まあいまどきそのまま併合しちまう訳にも行かないんで兵を引いたら、神の抵抗軍だのボコ・ハラムだのの温床になっちまったけど。
ポル・ポト以後のカンボジア(は、アメリカが一番悪い)もそうだけど、相手のレベル次第では一定期間やらざるを得ない植民地化ってのはあり得るんだよねえ… >>2
明治維新後の日本政府は幕藩に代わって家禄を支給していたのだが、国家予算の4割がニート化した武家や公家の食い扶持にきえていたので1876年に秩禄処分として家禄廃止。
明治維新では勝ち組だったから永遠に家禄がもらえると思っていた薩摩藩士は怒り爆発して1877年1月から内戦突入。
という流れ。 すごいのは、薩軍が鹿児島を出て熊本城に至るまでに
明治政府は電信で情報を東京に送り、東京から兵隊を
汽車で横浜に送り、そこから汽船で熊本に輸送し
先に熊本城に入れてること
全国の反乱鎮圧が念頭にあったんだろうが明治になって
数年でここまでできるとはね
この電信と輸送力の軍事革命に桐野らはついていけなかった 平潟戦線における列藩同盟軍の主力は仙台藩だった。6月16日か
ら20日にかけて新政府軍・約750人が海路常陸国(茨城県)平潟
港に上陸した。列藩同盟軍は上陸阻止に失敗した。
当時、榎本武揚の旧幕府艦隊は健在だったが、新政府軍の軍艦を
用いた上陸作戦を傍観した。その後も順次上陸作戦は実行され、
新政府軍の兵力は約1,500人となった。
(ウィキペディア「戊辰戦争」)
6月13日に品川から出航した輸送艦が平潟に到着したのは16日で
あった。同日、小船に乗り換えて数名が平潟へと上陸する。その
動きは平潟の西にある勿来関で仙台2小隊50名を率いていた大江
久左衛門の知る所となったが、大江は何故か軍を動かさず新政府
軍の上陸を傍観した。
(ウィキペディア「磐城の戦い」)
なぜ上陸を阻止する水際作戦をしなかったんだ?
特に榎本。 維新は
・徳川慶喜が徹底抗戦しなかったとこ
・大鳥圭介・榎本武揚がいまいちだったこと
で成ったんや 榎本艦隊があちこちに動いて艦砲射撃していれば、幕府残党はもうちょっと戦えた。 ちゃんとメンテナンスできる設備ある港があるのかな、脱走後の榎本艦隊
それが無いからいろいろ脱落した気がするんだ 西郷は結果的に藩政を乗っ取り利用したため
自分もまた次の世代の桐野らにいいように利用されても
文句は言えない・言わないと決めたのだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています