佐賀藩で思い出したのだが江戸時代佐賀藩は場所が場所なので長崎湾の警備を担当していて、
もし外国の船と戦闘になった場合、捨足軽という火薬を詰め込んだ樽を持って敵船に突入し自爆して敵船を沈めるための特別部隊が存在したそうな。
この捨足軽、同じく出島の警備を担当している福岡藩にも同様の部隊があり、かのフェートン号事件でも
「長崎の町年寄が人質の解放交渉に行った際、もし交渉が決裂したら隠し持っていた火薬80ポンドを爆発させて船もろとも沈むつもりだった、という話を消息筋から聞いた。こういう事やるのが日本人である」
という内容の記述をシーボルトが日記に残している。

ちなみにこの交渉に赴いた町年寄の名前は高島茂起。
高島流砲術の創始者である高島秋帆の父親である。