荏原製作所、研究所解体も特許出願4.5倍
https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00056/070900004/
とにかく研究と製品が乖離していた」。今から10年前、研究所を廃した当時の担当役員だった
辻村学フェローは当時の総合研究所の状況についてこう話す。
当時の最大の仕事といえば、「一年間の研究『成果』を記す年報を書くことだった」と辻村氏は振り返る。
事業部の現実とは関係ない研究でも年報に「成果」を書けば、研究員を評価する対象となっていた。
それはポンプやプラントなどを手掛ける事業部へ還元するビジネス上の成果には程遠かった。
そう判断した経営陣は研究所にいた94人を風水力や精密、環境といった各事業部に「散らせた」(辻村氏)。
総合研究所を解体し、研究者を各事業部で必要と考える技術の開発に従事させたのだ。
もっとも将来の製品のベースとなる基礎技術の研究を怠るわけにはいかない。
そこで頼ったのが大学の研究室だった。ともすれば100万円単位で予算を欲しがる社内の研究者に対し、
大学の研究室は30万〜50万円の研究費でも相談に乗ってくれた。基礎研究には大学の知恵を生かし、
最終製品に落とし込むのは各事業部の研究者という体制を作った。
研究員が事業部に散ったことによって、別の効果も出てきた。「総合研から事業部に移ったことで
“異文化交流”が生まれた」と辻村氏は話す。研究所という組織に閉じこもっていた研究員が営業など
事業部の声に触れて「研究すべきこと」を考えることが「化学変化」をもたらしたのだ。


いやいや、そんなことをやってたら独自技術が無くなるぞ?