真面目に書いてみる

今回の愛知の件は、そのイデオロギー性によって炎上したが
現代アートの抱える本質的な問題点は結局のところ何でもありという点にあると思う
デュシャンの泉が現代アートとして高く評価されていることに対して、事の是非はともかくとしてそれ自体に異論がある事は疑う余地はないと思うが
じゃあ俺が大便器にサインをして出展したところでそれに対して評価をするものは誰もいないだろう

これが普通のアートならば素朴に「これはいいものだ」と常人でも感じることはできるでしょう
なんでも鑑定団に出てくる美術品の大半がそうであるように
しかし、これは普通の芸術作品も大なり小なりそういう傾向があることではあるが、特に現代アートの場合は
誰かが評価をして箔をつけてしまえば現代アートとして評価されていることになる
言い換えると属人性に極度に依存しているわけで

極端な話、俺が大便器にサインをしたとして、なにがしかの高名な人が評価をしてしまえば
その時点で俺が作った次回以降のゴミも現代アートとして評価されてしまい
それに対しての特に好意的な評価は後付けでいくらでも作れてしまうわけだ
ポストモダンがどーたらこーたらとかね

無論資本主義の範疇で民間で勝手にやる分は、これも商業活動の1つとして認められてしかるべきだろう
だがこういった催しものを公的な機関がやるっていうのは、今回は津田が反日のゴミをかき集めて展示したから分かりやすく炎上してくれたが
もっと党派性が無いような代物だったとしても、ゴミに値打ちをつけるためにみんなの税金を使うのか、という謗りを免れられないと思う