日本海軍の場合、水圧復座のせいで全門斉射ができなかったので、交互に撃っていた

だから扶桑から八八あたりの戦艦からは、一回の斉射で最低5発の発射が必要だったとみえる
平賀が四連装砲塔説をとなえていたころ、長門の8門では不足だったのだろう